火だるま状態からの出発
父から実家に戻ってもいいとの許しが出たのは5年目のこと。戻ると真っ先に「ここにハンコをつけ」と差し出された書類は、巨額の借入金に対する個人保証でした。
「昔ながらの清酒づくりを続けていた蔵の財務は赤字続きの火だるま状態。先代が私への代替わりを決断したのは、万策尽きて後はお前に任せるということだったのです」
Y社長は逆に、「これはチャンスだ」と思ったと言います。SE勤務の傍ら自分なりに酒造りの勉強を続けていた彼は、田舎に帰るたびに「新しい酒造りに変えていくべき」と繰り返し進言していたのですが、それでも父親が一切耳を貸さなかったからです。「責任を負わされた以上、やりたいようにやれる」。彼はそう前向きに考え、決意をもって押印したのでした。
社長に就任した彼は、以前にも増してがむしゃらに勉強を続け、新しい酒造りの実現に向け自ら現場に入って、「どうしたら自分が一番飲みたいと思う酒が作れるか」の追求を始めました。そして現場と二人三脚で研究に研究を重ね、実践に実践を重ね、たどり着いたのが今の銘柄だったのです。
販売に関しても、それまでの地元中心の出荷でよしとする消極姿勢を改め、全国レベルの品評会に積極的に顔を出すなどし、「うちの酒の旨さを一人でも多くの人に知ってほしい」という姿勢で知名度を上げる努力をしました。そして社長就任から数年で、日本酒党の誰もが唸るおいしい酒を作り上げ、今では入手困難で有名になるほどの人気銘柄にまで押し上げたのです。