懐疑的な性善説
百歩譲って「悪魔のささやき」なるものが本当に聞こえたのだとしても、結局は欲望に負けて自分の意思でやったのであり、悪魔のせいにすることは許されない。「悪いのは自分の意思の弱さ、良識のなさである」ということをきちんと認めさせることなく、「魔が差した」で済ませてしまえば、再発防止はままならない。
一方で、良からぬ欲望を抑えるのは簡単なことではない。三谷幸喜氏の脚本で注目を浴びているNHK大河ドラマ「真田丸」で、幸村の父を好演している草刈正雄氏のセリフに「人は皆、己の欲のために動くのじゃ」というのがあったが、私たちは「己の欲」と「人としてもつべき誠実さ」との間で葛藤を繰り返しながら、日々暮らしているのではないだろうか。
前回書いた「懐疑的な性善説」は、このような葛藤の存在を冷静に見据えた考え方といえる。要は、人は誰でも、自分の意思の弱さ、認識の甘さが作りだす心の中の悪魔にそそのかされて不正の動機を抱き、「気づかれないだろう」と打算的に考えて、「ちょっとくらい」などと正当化してしまう恐れがある、というリスク感度を常に高めておくということである。