東芝で2015年に発覚した巨額の会計不正により、同社に対して73億円の課徴金納付命令が出され、歴代の経営陣の責任を問う訴訟も起こされている。
さらに、東芝の監査法人および担当会計士に対しても公認会計士法に基づく処分が下された。それを受けて、日本公認会計士協会は、会計士に対して「職業的な懐疑心」を十分に発揮し「相当の注意」を払って監査を徹底するよう改めて要請した。
「みんな悪人」が前提では・・・
ところで、企業不正が相次ぐと「日本の企業は今まで性善説による管理をしてきたが、これからは性悪説で考えなければダメだ」と指摘されがちであるが、そもそも、性善説・性悪説とはどのようなことなのか。
そこで問題。次の説明は正しいかどうか、考えていただきたい。
●性善説は「人はみんな善人で、不正などしないから、任せて安心である」という考え方であり、性悪説は「人はみんな悪人で、放っておくと不正をするから、厳しく管理しなければならない」という考え方である。
これらの説明が正しければ、性善説はあまりに楽観的な考え方であり、確かに不正が起こりやすくなるだろう。しかし、従業員を「みんな悪人」とみなして管理するというのもしっくりこない。上司が部下にそんな態度で接したら、お互いの信頼関係など生じる余地はなく、部下のモチベーションは低下し続け、企業の発展は望めないだろう。
教育の重要性
では、どのように解釈すればいいのだろうか。筆者が知る限りでは、性善説は、中国の思想家孟子が唱えたもので「人は生来、善の素養(他人への思いやり、善悪の分別、不正を恥じる気持ちなど)を備えている」という考え方である。
但し、それには続きがあって、「しかし、放っておくと外部の影響を受けて善に反する行為をしてしまう恐れがあるため、教育によって善の素養を高め続けなければならない」とも説いているそうだ。つまり、性善説は「みんないい人だから大丈夫」というのではなく、「人が本来備えている善の素養を信頼しつつ、外から悪い影響を受けて不誠実な行いをしてしまわないように注意せよ」という考え方だといえるだろう。
一方、性悪説は、同じく中国の思想家荀子が唱えたもので、「人は生来、利己的になったり他人を恨んだりするものであり、放っておくと善に反する行為をしまうため、教育によって善の素養を備えさせなければならない」という考え方をする。つまり、性悪説は「人はみんな悪人だから気をつけろ」という人間不信に満ちたものではなく、「人の性(さが)が不誠実な行為につながらないように注意せよ」という説だと解釈できる。
懐疑的な性善説
こう考えると、性善説と性悪説は、人がもって生まれるもののとらえ方は大きく異なるものの、詰るところ「人の弱さ」に着目し、それが顕在化して悪事に至らぬように教育や規範づくりを重視するという共通点も持っているのだ。人的リスクの管理は「性弱説」で行うべきと主張する人もいるが、言い得て妙かもしれない。
冒頭の「懐疑心」になぞらえるならば、不正対策のツボは「懐疑的な性善説」による管理を徹底することではないだろうか。言い換えれば「社員(部下)の誠実さを信じよう。でも、誰にでも不誠実な考えに流される弱さがあるため、注意して見守ろう」という勘所を押さえることが求められているのである。(甘粕潔)