給料を上げさせた一橋大生
戦前からさらにさかのぼり、明治後期の話。
当時の初任給は、東大などの帝大を100とすると一橋は60~70、慶応50~60、早稲田30~40という程度でした。これは、教育期間の違いなどがあったにせよ、露骨と言えば露骨です。
1892年(明治25年)、ある一橋大生が三菱に入社することになりました。同郷に重役がいて三菱入社を勧めてくれたのです。
当時、三菱は帝大卒が40円、一橋大卒は20円が初任給。
入社できて良かったね、で終わるかと思えば、この一橋大生は、なんと入社を断ります。
「三菱のやり口は、あまりにも差が大きすぎます。それで就職しては、学校の名誉のためいやです。第二の理由は、私は卒業後就職したら、弟の教育をひき受けるということを親父と約束してあり・・・」
ここで偉いのが三菱の重役。
「困ったものだ」
と言いながら、結局25円に引き上げられました。それでもまだこの大先輩は不満だったようですが、2年前に入社した一橋出もまだ20円で勤務している、腕次第でじきに上げてやるから、と説得され入社を決めたようです。
「とにかく、高商出身の私が二五円の初任給で三菱に入ったということは、当時にあってはまことに破格のことであって、これが動機となって、後からきた人もおなじく二五円ということになり、さらに三〇円、三五円」
と上昇。1911年(明治44年)、三菱において、帝大と一橋の初任給は同額となります。
そして、1923年(大正12年)、三菱の諸会社は帝大・一橋・慶応・早稲田の各校は初任給75円、明治大などの私大と地方高商は65円と定めました。これが大卒初任給の大学間格差撤廃の端緒となります。
このとき、かつて初任給を引き上げさせた一橋の大先輩たる三宅川百太郎は三菱商事社長となっていました(三宅川百太郎『私は初任給の増額を迫った』)。