懇意にしているアパレルショップチェーン経営のY社長と食事をしました。
開口一番、社長の口を突いて出たのは、「君もよく知っているうちのトップセールスA女史が、今月一杯で辞めてしまうのだよ。これは大変な痛手でね。彼女が副店長をしていた基幹店の売上はガタ落ち確実。本当に参っています」という嘆きでした。
他社スカウト?あるいはご家庭の事情?かと思いきや、どうやら「もっと精神的に楽な仕事をしたい」とだけ言って辞意を伝えたとのこと。聞けばどうやらキッカケとなった事件があったようで、店頭での本人の単純ミスにより大きなクレーム沙汰になってしまい、そのことを必要以上に思い悩んでいたのだと。さては周囲が厳しく叱責でもして追い込んでしまったのではないのかと尋ねてみましたが、そうではないようでした。
ミスに落ち込む社員へ「君は優秀なのだから大丈夫。気にするな」
「店舗を統括する部長も店長も、君のような優秀なスタッフが単純なミスでクレームになるなんてしっかりやってください、とは言ったようですが、彼女を追い込むような厳しい責め立てはしてないと。むしろ期待感を伝えほとんど叱ってはいないようです。だから分からないのですよ、なぜ急にやめると言い出したのか。若い女性の気まぐれでしょうか」
この話を聞いて、ピンと来たことがありました。私が銀行で支店長をしていた時のことです。元行員で、結婚退職して数年のブランク後にパート職として職場復帰してくれたTさんという女性がいました。行員時代は優秀テラー(窓口業務)として何度も本部表彰をもらっていたという有名な女性でしたが、ブランクを経て職場復帰して扱う商品なども変わり、やや当時とは勝手が違うのか、本調子になるまで少し時間が必要な様子でした。
職場復帰から3か月ほどした頃だったと思います。彼女の事務ミスで、危うく取引先の手形が不渡りになるかもしれないという重大な事件が起きました。それまでも小さなミスはあったのですが、お客様に大変な迷惑を掛けかねない今回のミスに極度に落ち込むTさん。周囲がこの様子を見て口々に掛けた励ましは、「Tさんは、優秀なんだから大丈夫よ。元気出してね」「私なんかそんなミスはいつもの事なのだから、気にしない、気にしない。優秀なTさんは他でいくらでも埋め合わせがきくじゃない」、といった類のものだったのです。
Tさんは一向に元気にならず、事件の数日後、突然上司である課長に「辞めさせてください」と辞意を伝えました。驚いた課長はすぐさま、副支店長に報告します。課長と副支店長がせっかく職場復帰した元超優秀テラーに辞められては大変と、代わる代わる応接室に呼んでは「君は優秀なのだから大丈夫。気にするな」と引き留めの説得にあたりましたが、彼女の意志は固く、月末一杯で退職という流れになってしまったのです。
突如「辞めるのやめます」
そんなある日、私が取引先訪問に出ようと1階への階段を降りて行った時に、偶然階段を昇ってくるTさんと出くわしました。Tさんは、軽く会釈をすると、言いにくそうに「あの支店長、お聞きおよびかもしれませんが、私今月一杯で辞めさせていただくことにしました」と退職の挨拶をしてくれました。
私は、「聞いてますよ。Tさんが決めたことだから残念だけど仕方ない。これからもお客様としてよろしくお願いしますね」と、これ以上の説得はしても意味がないと思ったことと訪問先へ急いでいたこともあり、さらりと挨拶を返して通り過ぎました。
夕方、店に戻ってみると何やら営業場が騒がしくなっていました。なんだろうとその騒ぎの中に入っていくと、とあるパートさんがニコニコしながらこんなことを言ってきました。
「支店長、どうやって口説き落としたんですか。さすがですねぇ」。
事情が分からず課長に尋ねると、Tさんが急に翻意して「今支店長と話をして、やっぱり仕事を続けさせていただきたく思いましたので、よろしくお願いいたします」と言ってきたのだと。課長はあわてて本部に退職手続きの中止をお願いし、今まさになんとか手続きが完了したというのです。「訳が分からないですが、とにかく良かったです。支店長、ありがとうございました」と課長。そう言われても、訳が分からないのはむしろ私の方でした。
プレッシャーに押しつぶされそうだった
数日後、直接本人から話を聞きました。スッキリした顔で彼女はこう答えてくれました。
「私は復帰した時から、上司からも周囲からも『優秀な人が来た』と盛んに言われ、本当にプレッシャーに押しつぶされそうだったのです。期待に応えなくちゃ、ちょっとしたミスも許されない、そんな思いで疲れました。で、あの事件で限界が来て。でも皆さんからは相変わらず、優秀なのだからがんばれと。支店長のそっけない対応が嬉しかったです。『なんだ期待されてないんじゃん。じゃ、がんばれるかも』と思いました。ありがとうございます」
何が功を奏するか分からないものですが、周囲の必要以上の期待がかえって優秀な人材を押しつぶしてしまうこともあるのだと、学ばせてもらいました。
私の話を聞いたY社長、「そうか、プレッシャーがねぇ。退職手続きで今月中にAさんは本社に顔を出すようだから、僕が一丁サラッと登場してみますかな」と、Aさんの翻意に社長は登板を決めたようです。上手なプレッシャー排除で果たして翻意できるのか。結果は間もなく出ます。(大関暁夫)