何を持ってブラックとするのか
山本一郎氏は「巷の"ハローワークでブラック企業の「求人お断り」検討"に思う」(2015年1月6日)という記事で、
「何を持ってブラックとするのか」はちゃんと法的か慣例的かは別として作ってあげるのが良いと思います。
と述べていた。私も同感である。
しかし「ブラック企業の定義」をめぐっては、常に議論が錯綜するものだ。ブラック企業を論じている識者それぞれが、独自の定義を基に自論を展開しているため、前提条件から共有できていないことも多い。
ブラック企業=「劣悪な労働環境」「従業員使い捨て」といった労働者側の視点による現象面のみがクローズアップされ、感情的で、単に「ブラックとされている有名企業を叩く」だけで終始してしまっている。
現在の労働現場において起こっていることの背景や要因の分析が浅いままで、表層的な批判が広がりすぎるのは、大多数の人にとって得にならない。単に「ブラック企業アレルギー」ともいえる過敏な労働者を増やし、ブラックと目される企業は生き長らえるだけで、全体として問題解決につながらないからだ。
結論から言うと、ブラック企業問題は「悪意ある個別企業」だけで終始するものではなく、「ブラック企業しか行きどころのない人」、「厳しい消費者目線」、「特定企業を『ブラックだ!』と騒ぎ立てる大衆」、そして「労働法制」・「労働行政」・「雇用慣行」がセットになって成り立っている。
海外にも似たような表現として「sweatshop」「血汗工蔽」といった言葉があるが、それらはあくまで劣悪な労働環境下に置かれているブルーカラーを表現したものであり、ホワイトカラーに当てはまる言葉を有しているのは日本独自の現象なのだ。