サイバーエージェントの藤田晋社長がプロジェクトリーダーの社員を同業に引き抜かれ、自身のブログ(日経電子版)で怒りをぶちまけていたことが先週話題になっていました。社員は何かあれば自身の判断で辞めていくもの、分かってはいても重要な役割を担わせている社員には辞めて欲しくない、同業に行くなんて絶対に許せん、そう考える経営者は意外に多いものです。
労働者は在職中に、使用者と競業する事業を営んで使用者の利益を著しく害するようなことをしてはならない法的な義務を負うという考え方を「競業避止」と言います。これが退職後に元の会社と競業する事業を営む他社に就職した場合も有効であるか否かは、法的にも判断の難しいところなのですが、以前それにまつわる事件がありました。
転職抑止効果を狙った競業避止項目
機械設計会社のB社は、特許技術を所有していた関係で社員が退職後、同業他社に一定期間転職することを禁じる旨を罰則と併せて就業規則に記していました。転職抑止効果を狙った競業避止項目です。ある時、主要設計グループのリーダーを任せていた技術者のYさんが、突然退職を申し出ます。Yさんは、社長が高い評価を与え、ゆくゆくは役員にもと思っていた存在だけにそのショックは大きく、なんとか退職を阻止しようと動きます。
社長は不平不満を聞き出し改善策を提示することで、引き留め工作をしようと試みました。しかしYさんは全く動じることがないばかりか、退職の具体的な理由さえ明かすことなくただ一言「やりたいことができたので」との理由だけを口にして、退職意志の固さを示したのでした。Yさんのあまりに強硬な態度に、社長は「うちの会社に育ててもらっておきながら、なんていう恩知らずだ」という気持ちが大きく頭をもたげたのでしょう。こんなことを口にします。
「Yくん、分かっていると思うけれども、君は機密事項にあたるうちの専門知識が身についているから、同業他社には転職できない決まりだからね。同業への転職が分かった時には、規定にあるように過去1年間の支払給与を全額返還してもらうことになる。それを踏まえてもう一度よく考えてくれたまえ」
就業規則にある給与返還請求と「訴訟準備」をすると言い出した
社長はYさんの職種から考えて、同業に転職するに違いないと確信していました。競業避止をちらつかせれば少しは動じるだろうと思ったのでしょうが、Yさんは逆に態度を硬化させ、「失礼します」と背を向けて出て行きました。社長の一言はむしろ逆効果でした。
しかしそんなYさんの態度に、社長が抱く「裏切られた」という怒りは留まることを知りませんでした。第二のYさんを生まないためにも、会社の恩義に背を向けて辞めた者が、どういう末路を迎えるのか他の社員にも思い知らせたいと、営業社員にYさんの転職先と思しき同業をしらみつぶしにあたれと大号令をかけたのです。
1か月ほどして、Yさんの転職先が判明しました。社長の思った通り、それは同業の準大手企業でした。それを知った社長はますますヒートアップし、顧問弁護士に相談をして就業規則にある給与返還請求とそれを拒否した場合の訴訟準備をすると言い出したのです。
社長は、社内にも社員の同業他社への転職について、「うちの仕事は機密事項に溢れている。技術職の同業他社への転職は情報漏えいに等しい」と強調し、自己の正当性を主張しました。社員たちは異議を唱えるでもなく、もちろん同調するでもなく沈黙を続け、なんとも言えない異様なムードが社内を覆い始めたのでした。
行き過ぎた抑止策はかえって逆効果に
しかしこの問題はあっさりと終局を迎えました。社長の相談に対して顧問弁護士が、「いかに就業規則に規定があろうとも、職業選択の自由の観点から同業への転職を競業避止で訴えることは難しい」との見解を出し、「訴訟は時間とおカネの無駄。給与返還請求は場合によっては、恐喝とも取られかねない」と反対したのです。社長は納得できないながらも渋々従う以外にありませんでした。
会社が大変だったのはそれからです。給与返還請求も訴訟を起こされる心配がないことが分かった社員たちは、転職活動を始め歯が抜けるように続々辞めてしまったのです。その当時に同社で働きやはり転職した一人Mさんによれば、「Yさんの一件以来、社内は暗くなるし業績も下降線に。社員たちは、自分の自由を理不尽に奪われたような気分になって社長に愛想をつかせた」のだと。B社は倒産こそしていませんが、この一件以降人材不足で仕事が滞り規模縮小を余儀なくされて、今は細々事業を営んでいる状況と聞いています。
厳しすぎる懲罰人事を見せしめ的におこなう企業は間々ありますが、行き過ぎた抑止策はかえって逆効果になるものです。なぜなら社員は、こと人事の問題に関しては、例え他人事でも自分の身にも起こり得るものとして見ているからです。社長が特に人事問題で冷静さを失うことは大きなリスクであるとの認識をもって、慎重な対応が望まれるところです。(大関暁夫)