「学園祭」のノリ
おそらくそのような思いは、覚悟を決めて同社に入った他の社員も同様であったはずだ。目前の仕事のキツさにはたまにグチを言う者もいたが、皆会社のミッションやビジョンを理解しており、高く遠い目標を共有して努力を惜しまなかった。その土台としては先述の「フェア」な評価や、着実に会社自体が成長しているという達成感もあったことだろう。確かに設定される目標は厳しい水準のものだったが達成できていたし(あれだけのハードワークを全員でやればそれは達成するはずだが…)、カリスマ会長が約束した売上規模や新サービスなどは全て言葉通りに実現していくので、信頼感と一体感があったことと思われる。
このように「ブラック企業勤務を愉しんでいた」なんて想像もつかない人にとっては、「学園祭」をイメージして頂くとよかろう。
たとえ準備が徹夜になろうとも、皆で一体となって取り組んだ昂揚感、当日盛況だったときの達成感、無事終了して打上げをするときの盛り上がり…など、辛さよりも愉しみを感じることのほうが多かったはずだ。
世間がブラック企業と揶揄しようとも、自らの価値観に合致した組織での勤務は、毎日が学園祭みたいなものだ。そこには決して「やらされ感」は存在しない。全員が同じ目標に向けて力を尽くし、段階的に目標が達成でき、やりがいを感じられることになる。結局は自身の価値観、そして何にモチベートされるかの違いだけだ。
違法行為を野放しにしているブラック企業であっても、個々人の価値観に合致しているなら、その人にとってその会社はブラックではない。このように、「その会社や事業、経営者などに共感し、意義を感じている人が存在する」ということが、ブラック企業でも人が集まり、その会社が生きながらえている理由のひとつだ。
とはいえ、これはまだハッピーなケースだ。世の中には、そんなやりがいなど微塵も感じられない劣悪ブラック企業が多数存在する。しかし、存在しているということは、そこで日々働いている社員がいるということだ。では彼らこそ、なぜ辞めないのか?
その答えはまた次回以降で詳しく考察していきたい。
これからも引き続き、悪徳ブラック企業を血祭りにあげつつ、このようにブラック企業問題を本質から論じ、働き甲斐を感じられる社会、地道に働く人が報われる社会を実現すべく奔走していく所存である。(新田龍)