「フジ三太郎」の作者サトウサンペイさんは、昭和ヒトケタのまさに戦中派。真珠湾攻撃の翌年に旧制中学に入りました。「フジ三太郎」には、どうやらそんなサンペイさんの「戦争体験」が色濃く投影しているようです。
1年生のときはイモ畑の開墾、2年生になると授業は半分に減って防空壕掘り、3年生になると戦局はますます厳しくなって、陸軍造兵廠で高射砲の弾丸づくり。昼夜2交代勤務で、ほとんど「旋盤工」のような生活――。これがサンペイさんの中学時代です。
旧制中学に入ったのに「旋盤工」の日々
夜勤のときは、空襲警報のさなかに家を出て、灯火管制をした真っ暗な市電や京阪電車に乗って闇の中の大工場に急ぐ。御殿山という小高い丘の上にある造兵廠からは、はるか彼方に空襲で赤く染まった大阪の空が見えます。
でも、翌朝帰るまでは、自分の家が焼けたかどうか誰にもわからない。軍需工場で働いていたわけですから、超低空を飛んでくる米軍機の機銃掃射を何度も受けたそうです。
そして、終戦の日の翌朝、工場前で学徒動員は解散、とりあえず3週間ほど休んで9月の中ごろに学校へ来るように言われます。
9月のその日、何年かぶりに鉛筆とノートを背嚢に入れて、焼け跡の中を学校へと向かいます。ゲートルを巻かずに歩くのは中学に入ってから初めて。足もとが軽すぎてふわふわと頼りない。
先生が教室に入って来て、戦後1本目のチョークで文字を書く。先生が何か言っている。でも耳には入らない。ただ、目にぼんやりと黒板の4文字が映っていた。そこには今まで聞いたこともない「民主主義」という文字が書いてあった…。
以上はサンペイさんが母校の生野中学(生野高校)の校友会誌に寄せた「昭和二十年九月某日」という文章の要約です。原文は緊張感のある名文です。後に角川書店が出した教科書「高等学校総合国語Ⅰ」に収録されたそうです。電子版『フジ三太郎とサトウサンペイ』の昭和46年版のインタビューに再録されています。
旧制中学の制帽にあこがれて入学したのに、1度もかぶることなく「土方と工員」の生活に明け暮れた中学時代。サンペイさんの戦後とは同時代の多くの日本人と同じように、そうした「どん底」からの再出発、再構築でした。それは「昭和の日本」そのものの姿にほかなりません。
「日の丸弁当」にこだわる
戦後の高度成長を最前線で切り開いたのは、サンペイさんたちと同世代の戦中派でした。戦争が終わって20年がたってスタートした「フジ三太郎」にも、ときに戦争の記憶がチラつくのは当然でしょう。
いやむしろサンペイさんは意図的にそのようなメッセージを、「忘れてないよ」といわんばかりに発信してきたように思われます。
「日の丸弁当」という作品があります。昭和52年6月9日のものです。昼食時に同僚のOLが「日の丸弁当」を食べています。ご飯の真ん中に梅干、おかずにサケの塩焼きが付いています。
三太郎は、それは日の丸弁当ではない「『日ソ』弁当」であると否定します。サケは北方領土でソ連に押さえられている、ゆえにサケが入っていると「日ソ」である、というわけです。そして自分の弁当のフタをあけ、「これが日の丸弁当です」と見せ付けます。そこにはおかずとして、サケではなくイワシが入っています。
これは単に弁当の話題ですが、沖縄は返還されても、北方領土はなおざりになっていること、そしてそのことに日ごろ多くの人が無頓着になっていることへのサンペイさんの不満がうかがえます。ここでも「自分は忘れてない」「みんなにも忘れてほしくない」というメッセージがうかがえます。
どうやらサンペイさんは、経済大国になった日本人が大事なことを忘れてないか、そんな「忘れもの」を届けにくる郵便配達のような役割もしていたようです。そして三太郎は、平凡なサラリーマンではありますが、ときにそんなサンペイさんの思いを代弁する、なかなか骨のあるこだわり人間でした。