ここ何回か、会社の中で「火中の栗を拾う」ことのメリットとリスクについて書いてきましたが、いくつか批判もいただきました。
それは私が「(拾った後に宝石に化けないような)黒こげの栗は拾うな」「火傷しないような拾い方をしろ」と指摘したことに対する反論です。例えば、このような意見です。
「自分のことなんか考えてたら、火中の栗なんて拾えない」
「火中の栗を拾うときは、細かいリスクなど目に入らないものだ」
だまされて他人の手先に終わってはいけない
ここで「火中の栗」のことわざの元になった、ラ・フォンテーヌの寓話にさかのぼってみましょう。あるとき、ずるいサルにおだてられたネコが、囲炉裏の中で焼けている栗を拾いました。しかし栗はサルが食べてしまい、ネコはやけどをしただけでした――。
つまり「火中の栗」とは、元々は「だまされて他人の手先として危険な仕事に使われる」という意味なのです。それが日本語に置き換えられたとき、なぜか「公益のためにあえて犠牲になる」という美しい意味になってしまったのでした。
「玉砕」や「自己犠牲」が好きな日本人らしい受容の仕方ですが、これは一方で、リスクをきちんと確認することを怠ったり、細かいことを面倒がって勢いで押し切ってしまう悪い癖だということもできるのではないでしょうか。
確かに寓話のように、囲炉裏の栗を拾わざるを得ない状況に追い込まれることがあります。現状を打破するには、誰もが背を向ける仕事に着手するしか選択肢が残されていない場面に置かれることもあるでしょう。
そのような周囲から損と思われる役回りになっても、決してヤケになってはいけません。火傷しない拾い方や栗の選び方に注意を払わなければ、会社や上司の手先としていいように使われるだけ。
火傷せずにおいしい栗を取り出せれば、会社全体が幸せになり、自分の将来をよい方向に変えます。計算づくでそういうやり方を目指すことは、私は決して悪いことではないと思います。
経験に基づく自信だけで突っ走るのは危ない
勇気を振り絞って火中の栗を拾うことは尊いことですが、「経験に基づく自信」がある人ほど失敗しやすいもの。拾おうとする「栗」の中にあるリスクを確認し、何をどうすれば最大の失敗を避けられるか考えることをおろそかにしてはなりません。
携帯ゲームの開発会社に勤務するKさんという人がいます。会社はコンテンツを保有する会社と合弁会社を立ち上げることになり、代表者を誰にするか社内公募がありました。
Kさんは、社内で1人だけ手を挙げました。仕事が大変なのはわかっていましたが、前職で合弁会社づくりを経験していたこともあり、それなりに自信がありました。
しかし、Kさんは思わぬ形で苦労を強いられることになりました。コンテンツ会社の関係者と会食する写真をフェイスブックに載せたところ、辛らつなコメントがついたそうです。
「あんな会社と仕事するなんて終わりでしょ」
「いつか刺されますよ。ご愁傷様」
そこで合弁先パートナーの素性を詳しく調べたところ、評判は最悪でした。他の取引先との裁判をいくつか抱えており、ネット検索すると「ブラック」という言葉が登場する始末。
しかし自分から手を挙げた手前、「やっぱりやめます」と降りるわけにはいきません。Kさんは、泥舟に乗っているような心境になってきました。
その後、この合弁相手は強引な経営姿勢のツケで業績が悪化、プロジェクトは頓挫しました。Kさんは元の職場に戻されましたが、心底ホッとしたそうです。もしあのままプロジェクトが実現していたら、社会的にも再起不能になっていたかもしれません。(高城幸司)