最近、海外就職に対する注目が急速に広がっています。そんな中、海外で働いたり移住したりする人に対し、「日本を捨てた」とレッテルを貼ろうとする動きがあるところが気になります。例えば先日の『週刊現代』(2013.1.26号)の見出しは、こんな感じです。
「なぜ彼らは日本を『捨てた』のか 海外に移住した日本の若者たち」
こういう見出しが注目を集めやすい現状があるのでしょうが、少なくとも私が知っている海外就職者やこれから海外で働こうとしている人たちには、「捨てた」という表現が当てはまる人は非常に少なく、現状に即していないと思います。
海外で働きながら、日本人の誇りを感じている人は多い
まず、海外アジアで働く人には「日本のよさ」を深く理解している人が多いです。『週刊現代』の記事には、東大卒の夫の海外留学についてきた女子大出の元銀行員が、
「(日本は)なんてつまらない国なんだろう。私たちはもっといろんな経験をしたいし、将来、生まれる子供にも自由に生きてほしいと思った」
とコメントしています。しかし、渡航直後はその国のいいところばかりが見えるもの。時間が経てばその感想も変化してくるかもしれません。
海外で働く人たちが現地で武器にしているのは、「日本で働いたことがある」という貴重な経験です。日本で身につけた技術や経験や、日本人同士の人脈、日本という国が持っているブランド力の強さは、海外に出ると強く実感できます。
そのことを感じている彼らが、日本という国に感謝し、誇りを持たないわけがありません。
「日本にいる時は実力不足でいい仕事ができなかったけど、こっちで仕事を覚えて、将来は日本とこの国をつなぐ仕事をしたい」
「こっちの文化は気に入っているけど、足りないものもたくさんある。日本にある便利で楽しいものを、もっとこちらの人に提供したい」
まるで「日本株式会社」の入社を希望する熱心な学生か、最前線の営業マンのようではないですか。多くの人が「日本の役に立ちたい」「日本のものをもっと広めたい」というポジティブな感情を持って働いているのです。
「神戸の結婚式」と「バンコクの飲み会」が同じ時代
また、海外アジアで働く人は「チャンスを求めて住むところや働く場所を変える」レベルで物事を考える人が多く、大阪から東京に転職するのと同じ感覚です。それを可能にする語学力や異文化で生活するバイタリティは必要ですが、「国を捨てる」という感覚とはまるで無縁です。
現実問題、いまの日本には、若い人や起業家にとってチャンスが少ない国になっています。そんな状況下で、
「いまの自分の実力だったら、海外で働いた方がチャンスが多い」
と判断して、海外に進出しているわけです。
「日本を捨てる」的な記事の中には、「現地に骨を埋める」「今生の別れ」といった言葉も散見されます。まるで13歳のアントニオ猪木少年が、昭和30年代に何か月もかけて船に乗ってブラジルに移民した時の話のようです。
しかし海外で働いている人の多くは、出張や休暇で年に何回も帰国しています。東南アジアへの飛行機は数時間刻みに就航しており、東京から国内の地方に行くよりも、シンガポールに行った方が時間やお金が少なくてすむ場合もあります。
私の場合、「神戸の友達の結婚式に出席する」のと「バンコクで日本人が大勢集まる飲み会に参加する」感覚は、あまり変わりません。東京~大阪間の新幹線の正規料金と、成田~バンコクのLCCの料金の差は片道1万円程度だからです。
日本の不況が反転し、新たなステージに入るときのために
おそらく国境を越えることの重みというか、慣れの問題かと思います。旅慣れた人は出発3日前に慌ててチケットを手配することもしばしばですが、海外旅行は5年に1度という人にとっては何か月も前から入念な準備が必要なのでしょう。
インターネットの普及によって、「人、モノ、金、情報」は国境を軽々と越えて移動するようになりました。それに伴い、仕事も世界各国に散らばっていき、多くの国の人たちの連係プレーによってひとつの事をなすのが常識になりつつあります。
自分たちの仕事が奪われたと海外に敵対心を持つよりも、
「自分たちがやっている仕事も、アジアの人たちと協業することでよりよくできないか」と前向きに考えた方が、人生は楽しくなると思います。
「自分はその国でチャンスを掴むことができないか」
現時点では、日本は様々な意味で衰退途上にあります。しかしある時反転し、きっと新たなステージに入ることでしょう。そのときに必要なのは「多様な経験を持った人材」です。
海外でさまざまな修羅場をくぐり、経験を積んできた人材は、その一角を占めることができると思います。若い人たちには海外で就職しないまでも、少なくとも国境を越えることには慣れて欲しいと思います。せっかく世界がつながった実感を得られる時代に生きているんですから。(森山たつを)