「オレもとうとうスマホデビューすることにしたよ。イノウエさん、いろいろ教えてよね」
かたくなにネットの利用を拒否、パソコンを「悪魔の箱」と呼んでいた50代の飲食店主が言いました。また、突然、どうしたというのでしょう?
「知ってのとおり、ウチは一人のお客さんも多いんだけどさ、最近『オヤジさん、ネットの書き込み見てくれた?』なんて言うのが増えてきてね」
そんなもん、オレは見ねぇよ――。はじめのうちは、そう言ってかわしていたのですが、意外なトラブルに見舞われたことで、考えを変えるようになったのだとか。
食事しながらスマホいじってるのは、それか?
「ほら、バイトで来てるAちゃん、あれが注文を間違えちゃったらしくて、しかもその後の対応がマズかったらしいんだ。そのクレームを、お客さんがネットのグルメサイトに書いたってんだよ。そんなの、直接その場で言ってくれりゃ、謝りもするし、サービスの一つもするんだけどね。いつもの感じで見てないって言ったら、もう、もの凄く不機嫌になっちゃって」
こうしたトラブルは内々で済ませるよりも、ネットで公開して議論したほうが店のためにもなるし、その後の対応によっては、トラブルに対して真摯な態度の店というネット上での評価にも繋がるからいいのだ――。その客は、そのようにまくしたてたそうです。
決して若い一見客ではなく、1年以上にわたって通ってきていた、よく知られた会社でそれなりの地位にいる客とあって、店主も慌ててしまいました。
これまで、何でもかんでも「客が偉い」というモンスター・カスタマーというわけでもなく、知人や同僚を伴って来ることもあった上客だっただけに、一層慌てふためいてしまったのです。
「でさ、スマホを買うと決めてからお客さんを見てると、これが結構、酒飲みながら、料理に箸をつけながら、スマホ片手に何かやってんだよね。『どうかしましたか?』なんて訊ねても、サッと隠して『いやいや、別に』って言われちゃうんだけど、あれ、何なの?」
一人客、グループ客を問わず、結構な確率でいるという、スマホ操作客。思い当たるとすれば、それこそグルメサイトへの投稿、ブログやSNS記事のリアルタイム作成ですか。
実は、筆者もカレー屋やラーメン屋でスマホ片手の客が多いことを、いぶかしく思っていました。定食屋でマンガ雑誌を読みながら食べるように、ケータイコミックでも見ながら食ってるのかと思いきや、それだけにあらず、だったのです。
なんでもかんでも「ネットに上げれば正義」とは
ランチやディナーを食べながら、スマホで料理や店の雰囲気のメモを取り、画像を撮り、余裕があれば画像に加工を加えた挙げ句、一気にSNS等に投稿するところまでやるよ――。何人かの知人から、こう聞かされました。
「へえぇ、そういうことだったの。でもさ、だからといってもさ、クレームはその場で直接言ってくれたらいいじゃない?」
何につけ、隠蔽や秘匿は悪、情報やプロセスは公開するのが善。闇雲にそういう風潮になってますからね。彼らにとっては、ネット上に事の成り行きや画像を公開するのは、正義を行っているのと同義なんでしょう。
オヤジさんも、美味しくつくる秘訣を訊かれて隠していると、あそこは美味いがとんでもない店だ、なんて書かれちゃうかもしれませんよ。
「マジかよ! 困った世の中になっちまったなぁ。集中してこしらえている時に、あれこれ質問されたんじゃ、ホントに困っちゃうなぁ」
冗談です。でも、ありえないとも限りませんよ――。ああ、そうなの、と50代店主はいかにもホッとした様子で言いました。
「でもね、方法論は書いたり話したりで伝えることはできるけど、それでも言葉にできななかったり、言葉にしにくいタイミングの妙や勘所ってのがあってね。それは、本人のセンスとか修業の中身とかによるんであって。だから、方法論を公開することってのは、そんなにリスクじゃないんだよ。むしろ、風評リスクのほうがキツい。だから、気にしてイノウエさんに訊いたんだよ」
なるほど。どれだけ便利になったところで、結局は本人次第。ベテランの職人さんに、思わぬところで良い稽古をつけていただきました。(井上トシユキ)