尖閣諸島の国有化を契機として、中国各地で反日デモが激化した。廃墟となったスーパーや日本食レストランの写真を見て、衝撃を受けた人も多いのではないか。
ただ、筆者は一連の騒動を見ていて、なぜか日本の全共闘運動を連想してしまった。60年代後半から70年代にかけて、ちょうど今の団塊世代が日本中の大学で暴れ回ったアレである。反日デモと日本の学生運動の共通点とは何だろうか。
共通する「大卒者がエリートでなくなった憤り」
実は、一連の大学紛争で明確なビジョンを持っていたのはごく一部の学生だけで、圧倒的多数の学生はただなんとなくデモに参加していただけだった。彼らを「なんとなく」デモに参加させたのは、実に単純な理由だった。
「一九七〇年代から日本の企業は大卒の大量採用をおこなった。七一年には、大卒を九〇〇人採用する企業があらわれた。大量採用だから、大卒だからと言っても専門職種につくわけではない。将来の幹部要員でもない。ただのサラリーマン予備軍には専門知や教養知を必要としないのである。
(中略)そんな大学生が、知識人とはなにか、学問する者の使命と責任をとことんつきつめようとしたところが腑に落ちないのである。
あの問いかけは、大学生がただの人やただのサラリーマン予備軍になってしまった不安と憤怒に原因があった」(竹内洋『教養主義の没落』中公新書より)
戦後、豊かな時代の到来とともに日本の大学進学率は上昇し、70年頃には20%に達した。60年に61万人だった4年生大学在籍者は、10年後には137万人に急増している。倍増したとはいっても、本人たちは同じだけの学費を払い、先輩たちと同じエリートのつもりで入学してきているわけで、ある日突然、
「おまえら、もうエリートでもなんでもないから」
と言われて納得できるわけがない。社会秩序をひっくり返したくなる気持ちはよく分かる。
そして、この構図は、そのまま今の中国にも当てはまる。今年、中国の大学を卒業する学生は過去最大の680万人に上るとされるが、未就業の既卒者がさらに200万人存在すると言われている。
経済成長を続ける同国だから、贅沢言わなきゃいくらでも働き口はあるだろうが、「大卒」に相応しい働き口がそれだけ純増しているとはとうてい思えない。強烈なフラストレーションが溜まっていることは想像に難くないだろう。
もちろん全員が就職に不満のある大学生というわけではないだろうが、当局がデモ抑制のために臨時授業の実施などで対応していることから見ても、大学生がデモの大きな原動力であることは間違いない。
これが、筆者が反日デモを見て全共闘を連想した理由である。共産国において革命を叫んでもしょうがないので、反日を叫んでいるというわけだ。
自分たちの未来を自ら閉ざした中国人学生
ところで、中国経済は今、とても微妙な時期にある。単純な人件費の上昇に加え、雇用コストを大幅に引き上げる労働契約法の制定により、低コストでいくらでも労働力を確保できた時代は終わりつつある。実際、さらに人件費の安い東南アジア諸国がそういった役割を担うことになり、遠からず中国が「世界の工場」だった時代は終了するはずだ。
そのタイミングで、中国経済はより付加価値の高い産業にシフトせざるを得ない。逆に言えば、そうやって国民の所得を増やしていけるかどうかが、先進国にテイクオフできるかどうかの次のステップなのだ。
もちろん、そのアプローチとして「最低賃金を引き上げろ」とか「定年まで面倒み続けろ」と国が規制するのはバカの極みで、基本的には企業がそういう投資をしたがるように、規制緩和でビジネス環境を整備し、インフラを整え、優秀な人材をプールできるよう教育にも投資せねばならない。
そういう意味では、暇そうな若者たちが、気にいらない企業の店舗や工場に放火し略奪してまわっている光景は、世界の企業に衝撃を与えることだろう。しかも政府が「愛国無罪」とか言ってろくに取り締まる姿勢も見せず、補償責任も放棄している姿勢は、この国がグローバル企業の事業拠点としては致命的な問題を抱えていると宣言しているようなものだ。
筆者の感覚で言うと、もうこれから中国には「燃やされてもいいような拠点」しか置かない企業が増えるのではないか。
団塊世代は暴れるだけ暴れたものの、大半の学生は「裏で就活はちゃっかりこなして」(by 猪瀬東京都副知事)企業社会にエグジットし、豊かになっていった。自らがエグジットするはずのポジションを破壊してしまった中国人学生が、団塊世代と同じ道をたどれるとは筆者には思えない。(城繁幸)