昔、六本木に「マナハウス」という店があった。店名は英国のManor House、つまり執事がいてサービスをしてくれる施設に由来している。作家の村上龍、佐藤愛子、銀座「グレ」のママも通っていたらしい。
普通の会社員には敷居の高い店ではあったが、大事な商談のときは、この店を予約することにしていた。オーナーの高松さんは、僕が重要な話をしにクライアントと一緒に来ることを知っていて、そのために最高の演出をしてくれていた。
ビジネスが魔法のような空間に助けられる
オーナーは、決まって店の一番奥の窓際のテーブルをとってくれていた。はじめて僕がこのお店を訪れたときに、座った席とテーブルだからだという。彼によれば、定位置に座ることは、ビジネスの難しい話をいつもと同じような気持ちで話すためには大切だということである。
お店が空いていても、同業他社と思しき人からの予約はとらないでいてくれた。隣の席にライバルが座って、また別のクライアント――もしかすると僕のクライアントでもあるかもしれない――と話が聞こえてしまうことほど、やりにくいことはない。高松さんは自分の不利益でも、クライアントである僕のためにそうしてくれた。
会話が途切れたのを見計らって、高松さんはサービスをしてくれる。絶好のタイミングだった。テーブルに来て話す会話も、でしゃばらず、かといって寡黙すぎず、有能な執事としての役回りを演じきっていた。
華やかな何かがあるわけでもないその店で、案内したクライアントは心からリラックスすることができる。難しいビジネスのやりとりも、なめらかに進んでいく。魔法のような空間を、そのお店は演出していた。僕は何度も彼のお店、彼の執事としてのプロフェッショナル・サービスに助けられていた。
同時に、手でとって触れることのできるモノを売るわけでないサービスの基本も学んだように思う。プロフェッショナル・サービスは、対人サービスであり、個人間のスキルが不可欠だから。
クライアントに本当の気持ちを語ってもらうには、どういう距離感を保つべきか、どんな間合いで質問を投げかけるべきか、言葉にならないプロフェッショナリズムの極意を学んだような気がする。
苦しいときこそ、勇気づける大切さ
このマナハウスは2005年2月に閉店し、その後、高松さんは銀座でひとりバーを開いていた。僕はそのバーにも仕事に行き詰まるとひとりで訪れ、3時間、4時間と長居をした。
カウンターを挟んで1対1。僕が会社を辞めてこれからどうしようと不安にかられていた時期も、成功していったいろいろな有名人――きっとマナハウスの賄いを食べにきていたのだろう――の不遇時代の話を聞かせてくれて、勇気づけてくれた。
そんな関係を続けていく中、高松さんは長い旅に出てしまった。もう二度と会えない人になってしまったけれど、苦しい時代もいろいろと面倒をみてくださった。僕にとって、今でも大切な恩人のひとりである。
彼から習った最大のことは、クライアントの中で苦しい境遇にある人とも、それまでと同じようにお付き合いをしていくことが大切だということ。会社の処遇は、運で大きく左右されることがあるからだ。
「人と人とのつながりは、会社の処遇で左右されてはいけない。みんな頑張っているのだから」
そんな高松さんの声が、耳にいつまでも響いている。(大庫直樹)