ヨーロッパ、スカンジナビア半島の東半分に位置するスウェーデンは、氷河に削られできあがった無数の湖沼を抱え、森と水の豊かな自然に恵まれる美しい国である。僕はかれこれ20年近く前、その国にコンサルティングファームの社員として赴任し、1年間暮らした。
気候風土は厳しく、真冬の太陽は朝9時に南から上り、午後3時には南に沈んでいく。太陽の位置が低く、1日18時間が漆黒の空に覆われる。首都ストックホルムでは8月の花火大会を境に秋が始まり、あっという間にマイナス10度の世界へと移行する。3月、再び摂氏0度に気温があがり、底抜けの青空を見上げることができる日々が訪れると、ようやく早春の解放感を感じ始める。
「グローバル・シチズン」への憧憬
僕が大学を卒業するまで、東京の街中であっても外国人に出会うことは、ほとんどなかった。ちらりほらり現れ出したのは、1980年代後半のバブルの時代だ。その頃になって外資系金融機関の東京支店が拡大され、一気に欧米人が増え始めた。
当時の日本の大手メーカーの最先端の経営課題は、海外進出だった。それも日米貿易摩擦などアメリカからの指摘に押されて、ようやく重い腰をあげたような感じだった。外国で活躍できる人材の育成が急務で、エグゼクティブとしての海外マナーや生活習慣などの研修さえ重要な時代だった。
僕自身のグローバル化も、日本経済と歩を合わせて1980年代半ばから始まった。いくつかの外資系企業の日本進出プロジェクトに携わった経験はあったが、海外在住経験など全くなかった。
僕は「グローバル・シチズン」となって世界で活躍することを夢見ていた。どんな国であっても母国と同じように仕事ができ、生活をエンジョイできる。そんなプロフェッショナルになってみたかった。
1990年代はじめ、たまたま欧州に赴任するチャンスをつかんだ。すでにデンマークに赴任していた同僚から、日本とスカンジナビア・オフィスでコンサルタントを相互に異動させて育成する話が進んでいるという噂話を国際電話で聞いた。当時はメールなどなかった。
翌日、東京のオフィス・マネージャーに直談判し、赴任するチャンスが広がった。やっと世界で活躍できるプロフェッショナルになれる。そう歓喜した。それから半年、僕は秋風が漂い出した8月のストックホルムに舞い降りた。日本での実績を引っ提げ、自信満々の登場だった。「グローバル・シチズン」への変身が始まったのだ。そう僕は思っていた。
発信するスキルに優先する「読み解く力」
しかし、現実はそんなに甘いものではなかった。日本人の僕がグローバルに活躍することの難しさを、嫌になるくらい味わう日々がスタートしただけのことだった。
もちろん英語の問題はあったが、今から思えばかなりマイナーな問題だったと思う。かっこいいプレゼンテーションをしようと、いつも思っていた。分析方法やクリエイティブなソリューションにこだわっていた。結果として、かの地ではなかなか信頼関係をクライアントの間に構築できなかった。
あの頃、僕はまだまだ青二才だった。クライアントの言うことにあまり耳を傾けていなかった。もう少し正確にいうと、耳をすまして英単語のひとつも聞きもらさぬように努力はしていたが、発言の背景を憶測することはなかった。自分が異国の地にいる以上、優れた分析をする、優れた情報を提供することばかり気が行っていた。
帰国が迫ったある日、同じようにイギリスから転籍していた同僚が言ったひとことが、僕に気づきを与えてくれた。「スウェーデンの英語は、僕にも分からないんだ」と。英語を母国語にするイギリス人が分からない英語とは何なのか。行間に潜む本音が大切だということだ。
外国人はストレートにモノを言うと、日本人は誤解している。しかし外国人であっても、ずばりずばりモノを言うことは少ない。いろいろと気をまわして発言する。むしろ多国籍、他民族が入り混じった環境にある国の方が、よく知らない相手の癇に障らないように、慎重な言いまわしをする。
今だって、僕の英語はへたくそだ。発音、イントネーション、文章の構成、どれをとっても日本語訛りまる出しだ。それでもなんとか英語で会話できるようになったのは、外国人は何を言いたいのかなと思う余裕ができたからだと思う。
プロフェッショナルとしての痛い経験をしたスウェーデンでの1年がなかったら、僕は本当のプロフェッショナルになっていなかったように思う。
大庫 直樹