「デザインはアートじゃないぃ」――。アート・ディレクター氏は、大阪弁でそう僕に説明をしてくれた。あれは、ふたりである美術館に行く約束をしたときのことだった。アーティストである画家に、アーティストであるとばかり思っていたアート・ディレクターを紹介しようと思っていた。だから、その一言は僕にとって慧眼だった。ようやく、その仕事の気づかなかった側面を垣間見たような気がした。
アート・ディレクターという職業は、ひとことで説明はつきにくい。ただ、どんな人がやっているのと尋ねられると、案外、答えは簡単に出てくる。たとえば、今ならユニクロを支援している佐藤可士和は目立った存在である。時代を遡っても、東京オリンピックやNTTのマークを手掛けた亀倉雄策がいる。
アート・ディレクターも「プロフェッショナル」だった
僕は、それまでアート・ディレクターを、自己表現を旨とするアーティストの一種だとばかり思っていた。「アート」と職業名にあるではないか。しかし、よくよく考えてみると、アート・ディレクターには明確にクライアントが存在している。クライアントのために働いて、クライアントからフィーをもらう。
その業務内容は多岐にわたる。イラスト、写真、展示物、舞台装置、その他もろもろを組み合わせてメッセージを紡ぎだしていく。いろいろなアプローチはあるが、基本は商品、サービス、場合によってはイベントの本質を、デザイン表現によって購買層と目される人々に伝えていく仕事である。
だから、アート・ディレクターは、自己表現をしようとしているのではない。クライアントのために、クライアントのよいところや特長を引き出し、デザインで伝えていく。そればかりか、クライアントさえ気づいていない本質的な提案を購買層にすることさえあるかもしれない。その意味で、「プロフェッショナル」な職業なのである。
僕がアート・ディレクター氏に描いてもらった似顔絵も、一見簡単なように見えて大変な作業があったことを、彼の事務所の若手から聞いている。僕の写真を眺めては、何度も何度も習作を積み重ねていったそうだ。ある大企業のCEOはその似顔絵を見て、「一目で大庫さんと分かるよ」と言ってくださった。
どちらの道でも一流を目指して
アート・ディレクター氏をお誘いしたその美術館は、僕の自宅の近くにある。日本の抽象画の草分け的存在の、アトリエを活用して建築された個人美術館だ。不揃いな樹木がかえって野趣をそそる。その雰囲気に惹かれ、仕事疲れの僕はときどき訪れる。
人物をここまで抽象化したカタチで表現されてしまうと、館長の解説抜きでは、作品が何を表現しているのかなかなか分からない。分からないのだけれども、何か訴えかけられるものを感じる。絵の前に時間を忘れて立ち止まる。だからこそ、アートなのであろう。
教会にある宗教画や富豪の肖像画など、クライアントが存在するものもあるが、この画家には基本的にいない。クライアントがいない中で、自分が描きたいものを描く。カタチのひとつひとつ、線のひとつひとつを自分で判断して描いていかなければならない。
どんなに葛藤があり、勇気が必要だったろう。自己表現に磨きをかけ、人物を記号化したカタチで表現する作風、彼のロジック、方法論に集大成していった。彼は「プロフェッショナル」ではなく「マエストロ」として、彼の仕事を昇華させたのだと思う。
僕は、いろいろな偶然が積み重なって、たまたまコンサルタントという「プロフェッショナル」の道を歩むことになった。クライアントがあって、彼らにとって最善を尽くすことが仕事になった。
画家はマエストロとして、自己表現を追求することになる。クライアントはいないが、画を見た人は気持ちを揺さぶられる。マエストロとプロフェッショナルの道は、紙一重のところで交わることがないのだろうが、どちらの道であっても一流と呼ばれるまで努力を重ねていく。僕はそれが一番大事なことと思っている。
大庫 直樹