橋下徹さんが大阪市長に当選した翌週、僕は久しぶりに大阪の街を闊歩していた。橋下さんが知事を辞任するまで、僕は大阪府特別参与として彼のアドバイザーであった。彼の大阪府知事辞任は、そのまま特別参与を解職されることでもあった。それまで、ほぼ毎週のように行っていた大阪訪問は1カ月以上も途絶えることになる。
外資系コンサルティングファームで育った自分がプロフェッショナルとしての浪人生活を送っていた3年近くの間、大阪が僕の活躍の場であった。大阪には縁もゆかりもない僕だが、苦しい時代を支えてくれた大阪は、今では思い出の場になっている。
頑なな浪人生活の始まり
僕が浪人を始めたのは2008年からだ。それは予定外の始まりであり、ある意味ではプロフェッショナルとして正しいことを貫きたいという頑なな思いから起きたことでもあった。
新しい事業を立ち上げたいと思って会社を辞めていた僕は、ある企業へ事業の提案をする。提案内容自体は合理的なものと信じていたが、先方の社内から反発の声があがる。加えてリーマン・ショックが起き、新規事業を始める経営環境ではなくなる。チャンスはついえた。
もし、僕が提案をもう少し社内感情に合わせることができたら、また変わった結果になったのかもしれない。でも、僕にはそれができなかった。組織の感情的な反応に迎合することで、せっかくターゲット顧客の行動をもとにつくりあげた先鋭的な事業計画を、どこにでもあるような、誰でも思いつきそうなものにしたくはなかった。どこにもないアイディアだからこそ戦略であり、社員はそれによって便益を受けるはずだった。役員層のプライドは別としても。
大阪府・橋下知事との出会いは偶然だった。僕は東京生まれの東京育ち。父親の家系は、江戸開闢前から東京に住んでいた。浪人生活していても、生計を立てなければならない。学生の浪人とは違う。妻もいれば子供もいる。仕事を探しに、たまたまマッキンゼー時代の先輩に会いに行ったことから、大阪府の仕事は始まった。
ただし、自治体経営なぞ知る由もない。はじめのうちは公会計という企業会計とは全く違う経理の仕方に驚き、あらゆるところで的外れなことを言っていたように思う。もちろん、クライアントである大阪府へのバリューはない。
ただ、それでも許してもらっていたのは、ひとえに誠実に接し続けたことなのではないかと思う。クライアントに誠実に尽くすこと、それは「プロフェッショナル」としての基本なのだ。
プロフェッショナルはよきクライアントに育てられる
なんとか自治体経営の勘所を掴み、プロフェッショナルとしてそれなりのバリューを提供できるようになったのは、半年くらい経ってからだったと思う。一介の浪人に過ぎない僕にチャンスを与えてくれたこと、半年も見守ってくれたこと、橋下さんや大阪府の皆さんにありがとうと言いたい。
同時にそれはプロフェッショナルにとって、よきクライアントに出会うことの大事さを改めて感じたときでもあった。僕がリタイアするとき、あの浪人時代を救ってくれたクライアントを思い出すに違いないのだ。
市長選の後の週、大阪での仕事は夕方6時に終わった。8時過ぎの予約をとってある。フライトまで2時間くらいある。
大手企業の看板やブランドを失っても、僕のアドバイスに真剣に耳を傾けてくれる知事や府の職員。涙がでるくらいに、嬉しかった。ビールを飲んでも千円台であがる大阪のB級グルメの夕食。それが僕にとってのささやかなご褒美でもあった。あの当時、僕自身の遊びに使えるような自由な金は持っていなかった。
僕はどうしても浪人時代の御馳走を食べたくなった。無意識のうちにタクシーを拾い、中之島からミナミに急いだ。高島屋の前で降り、南海通商店街を抜けていく。お好み焼き、福太郎。僕のお気に入りの店だ。980円のすじねぎ焼きを注文する。ヒラで切り、箸で口に運ぶ。うまかった。思い出の味がした。思わずジワッと来るものを感じた。
大庫 直樹