日本の会社は自社の人材に対し、口では「独自性」や「他人と違う発想」を求めるが、実際には「協調性」や「従順」「横並び」を最優先するというのは、よく聞く話だ。両者が根本的に矛盾し、並び立たないという認識が足りないのだろう。
漫画家の山田玲司氏は、取材で数百人の「才能のカタマリ」に話を聞いた結果、才能というのは「どこにも属せない感覚」、すなわち「非属」の感覚の中にこそあるという結論に至ったという。
最後尾に並ぶな、自ら行列を作れ
――日本人は主張しない。自分を押し殺す。そうすれば、とりあえず仲間はできるし、いじめられずにすむからだ。
そんなこんなで、同調圧力がもっとも強い学生時代にまわりに合わせることを覚えた人間は、その気楽さゆえに、いつも行列のうしろに並んでいる自分の人生に疑いを持たなくなってしまう。
「自分はどういう人間か?」「どう生きるべきか?」「幸せとは何か?」といった人生の大問題は無視され、うやむやになる。
それでも、それなりに暮らせた時代はよかった。経済はずっと右肩上がりだったし、群れてさえいればソコソコの幸せを感じることができた。
しかし、そういった「恵まれた時代」はついに過ぎ去ってしまった。いまや倒産やリストラは珍しいものではなく、格差や競争があたりまえの時代だ。「どんなときも横並び」といった群れは淘汰され、才能のない人間は退場を強いられてしまう。
言葉を換えれば、「どこに属しているか」より、「その人個人」の存在が問われるべき時代になったと言ってもいいだろう。
そんな時代に幸せに生きることができるのは、「みんなと同じ」といった楽を選ばず、自分の非属の部分に目を向けた人間だ。もっと言えば、行列の最後尾に並ぶ人間ではなく、先頭に立ち、自ら行列を作る人間だろう。
ずっとまわりに合わせて生きてきた人間には、主張すべき「自分」というものがない。もちろん、「これが人と違う私だけの才能です」と胸を張ることのできるような才能もない。
そんな人は、斬新な発想や独創性が決定的にものを言ういまの時代に、「使われるパーツ」以上の働きは望まれないだろう。要するに、「才能のない人間」として消耗されてしまうのだ――
(山田玲司著『非属の才能』光文社新書、7~9頁)
(会社ウォッチ編集部のひとこと)
ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアの普及により、自ら受発信する存在として認識される個人が急速に増えた。中には所属する組織の肩書きを背負って発信している人もいるが、フォロワーたちはそれだけで支持するわけではない。実際、肩書きが立派でも投稿がつまらないので、ほとんど相手にされない人もいる。学校や会社しかなかった時代よりも、「非属の才能」が認められる場が増えたことは、社会としてよいことではないか。