ツイッターで71万人のフォロワーを擁すなど、強力な発信力を持つ堀江貴文氏。メルマガや新刊書を読んで、「拝金主義者」のイメージが変わったという人も少なくない。
そんな彼が、「格差を絶対悪とし、格差是正を絶対善とする風潮」に正面から反論し、他人との違いを肯定的に捉える心の持ち方と取るべき行動について語っている。
「カネのこと、少しは忘れろよ」
――いろんな格差というものを見ていく前に、ひとつはっきりさせておかなくてはいけないことがある。それは、格差そのものが悪ではないということだ。
所得や地位、性別や性格、育ってきた環境……様々なバロメーターにおいて、自分と他人との間に差がある。その差は現実問題として厳然として存在しているし、ある程度までは数値化できるぐらいはっきりしているものだ。
死ぬ気で働いているのに一向に稼げない人がいれば、遊んでいるようにしか見えないのにやたらとカネを持っている人たちがいる。体育会系の運動バカのヤツがいれば、勉強するしか能のないヤツがいる。
やたらと女性にモテるイケメンがいれば、まったく女性にモテない非モテがいる。こうした違いは、いい意味で捉え直せば「差別化」だし、あるいは「個性」と言えるようなものかもしれない。
しかし、ある感情を抱いた瞬間、これらは「憎むべき格差」となってしまう。その感情とは、ねたみであり、ひがみである。
大半の人は、格差問題というと経済格差、つまりカネの問題を真っ先に思い浮かべてしまう。それもたいていの場合、自分が経済格差の下にいる人間だと思って、経済格差を憎む。
「オレはビンボーなのに、オレより劣っているはずのアイツが何で金持ちなんだ!」
「あんなに稼いでいるヤツは、きっと悪いことをして稼いでいるに違いない!」
そんな風に、嫉妬心に火がついてしまうのだ。
金持ち批判をしたり、成り上がりの人間を「拝金主義だ」と批判したりする人たちは、あることに気がついていない。それは、自分たちの方こそ、カネのことしか考えていないということだ。
自分のカネのことが、心配で心配で仕方がない。だから、金持ちを批判する。そういう人を見ると、「カネのこと、少しは忘れろよ」と言いたくなってしまう――
(堀江貴文著『格差の壁をぶっ壊す!』宝島社新書、12~13頁)
(会社ウォッチ編集部のひとこと)
堀江氏によると、突き詰めれば格差問題は、次の2つのいずれかの方法で解決する。自分と他人を比べたうえで、他人の上に行けるよう努力するか、あるいは違いを気にせず「俺ルール」の中で生きていくかだ。地域間格差については、日本には「移動の自由」があるのだから、税金を使って「格差を埋める」考え方は無駄と断ずる。「東京と同じ暮らしをしなければいけないというのはワガママだ」という著者の主張に反発を感じる人は、「地域間格差をことさらに強調する論調は、既得権益を捨てたくない地方有力者の欺瞞」という指摘をどう考えるだろう。