「賃金奴隷(Wage Slave)」という言葉がある。いわゆる奴隷のような物理的な拘束を受けているのではないが、カネの力でそれと同等の状態に置かれることをいう。言葉の意味に定まったものはないが、例えば以下のような場合がある。
「雇用主のために働き続けるか、貧困・飢餓に直面するか、どちらかの選択肢しかない」
「与えられた仕事をこなしていくだけ。他に人生の可能性はない」
驚くほど非人道的な日本の住宅ローン
これを見て「自分のことだ…」と思うサラリーマン諸氏も少なくないのではないか。実際、多くの日本企業では「新卒者を囲い込み、足抜けできない状態にして、一生飼い殺しにする」ともいえる雇用システムを維持してきた。
社員の生活は、企業によって公私に渡ってがんじがらめにされている。有給休暇も取らずに長時間勤務をし、夜は上司や同僚と縄のれんで一杯。もちろんビールは、同じ系列会社のものだ。
休日は会社の運動会や社員旅行、社員用保養所で家族サービス、住まいは社宅…。こうやって会社に絡めとられ、会社なしの人生は考えられなくなっていく。家族的経営の名のもとの、奴隷化の推進である。
「会社の手前、実名登録は躊躇されるから、日本ではフェイスブックは普及しない」などという訳のわからないことが話題になるのだから、奴隷化はいまも続いているといえるだろう。
日本の会社員の奴隷化を完成させるのが、「住宅ローン」である。アメリカなどでは、住宅ローンは「人に貸す」のではなく「家に貸す」という形式になっている。
だから、もし返済ができなくなったら、家を返せばチャラになる。これを「ノンリコース・ローン」という。いわば「質流れ」のような話だ。リスクは貸し手側が負うので、津波で家を流された人が二重ローンに苦しむ、などということはあり得ない。
一方で日本では、住宅ローンはあくまで「人」に貸しているので、いかなる場合も返済を逃れることはできない。最長35年という年月、一度も遅れることがないよう返済をしていかねばならず、完済するまで家は実質的に銀行の所有、という状況が続く。
これほど非人道的な契約も珍しい。借金のカタに会社員人生を取られたようなもの、といったら言い過ぎであろうか。
奴隷の身分は主人次第
残念なことに、今の日本では奴隷状態に安住してしまっている人が多いように思える。
確かに「奴隷」でいることはある意味ラクなことである。ヘーゲルは、
「奴隷とは、主人に守られている人である」
と言っている。自由と引き換えに保護を得られるのなら悪くない、と思う人がいても当然だろう。
しかし、資本主義の世の中に終身雇用など存在するはずもなく、会社にとってはせいぜい努力目標でしかない。就職人気ランキング上位の常連だった日本航空が、一気に破たんしてしまった例もある。主人あっての奴隷である。主人がなくなると、奴隷という身分さえ失うのだ。
米国でフォーチュン500にリストされる大企業の平均寿命は、40年から50年ほどだという。わが国の企業も似たり寄ったりだろう。中でも企業のピーク時にある会社は、これから下降線をたどる可能性が高い。
我が国でも、戦前は大企業といえども転職するのが当たり前だった。いわゆる終身雇用システムは戦後の高度成長時代に確立したものであり、経済の成長期が終わった現在、終身雇用など維持できないことを知るべきだ。
若い人たちには、こう言いたい。自分の人生を会社に売り渡してはいけない。
90年代後半に大手銀行が次々に破たんした時に、もっとも職探しが難しかったのは(エリートとされた)人事部や総務部などの管理部門だった。ノウハウが他の会社の役に立たないからだ。
本業に軸足を置きつつリスクに備える
若い人には本業に軸足を置きつつ、転職先を想定してスキルアップを常に図っていくことが望まれる。そうでないといざという時に悲惨な目にあうことになるだろう。
何かをすることは、何もしないよりも失敗するリスクは高まるかもしれない。しかし、ヘーゲルは、
「奴隷は自分でリスクを取りに行かない限り、永遠に主人にはなれない」
とも言っている。
奴隷になりたくなければ、自分でリスクを取りにいくことだ。そのうえで、できることなら自ら社会をリードする気概を見せて欲しいものだ。
一方、会社に自由を売り渡しているのにもかかわらず、「政府はバカだ」「うちの経営者はアホだ」などと管を巻き、自分は批判を受けない安住の場所にいるつもりの人たちには、こう言いたい。
文句を言えるのも、主人がいるおかげだ。社会は「主人」がいなければ機能していかないことだけは、最低限認識してほしいものである。
小田切 尚登