日本人には、周囲との協調性をとても気にするという面白い国民性がある。このため、普段は勤勉で忍耐強くて頼りになるが、ある一線を越えると、「俺も俺も」と皆で走り出すことが多い。
あんなに一生懸命頑張ったのに、終わったとたん、あっさり民主主義体制に順応してしまった第二次大戦が良い例だろう。
この事実を実体験で感じるのが、仕事で企業やビジネスマン向けに講演した後の質疑応答の時間だ。だいたい100人くらい参加者がいると、「質問はありますか?」と言っても誰も手はあげない。
でも、終了後に誰か一人が質問にくるや、俺も俺もと、わぁーっと列ができる。まさに一線を越える瞬間だ。
面白いのが大阪人で、彼らだけはなぜか、ちゃんと質疑応答の時間に「ハイ!ハイ!」と挙手してくれる。彼らは、空気よりも自分の感情に素直なのだろう。ちなみに、数えてみたら、質問の総数自体はほとんど変わらないから不思議なものだ。
「改革への一線」を越えるのはいつの日か
ところで、よく「大阪は生活保護が凄く多いから怪しからん」的なことを言う人がいるのだが、僕はあれも県民性で説明がつくと思っている。
つまり、不況が長引く中、今はまだ周囲に合わせて踏ん張っているが、ある段階が過ぎれば、他の都道府県でも同じ状況になるということだ。
先日、生活保護の支給額が初めて3兆円を超えたというニュースが流れたが、今まさに、日本は生活保護の一線を越えつつあるのだろう。
ちなみに、就職氷河期世代の非正規雇用労働者がこのまま高齢化した場合、生活保護費が新たに20兆円近く発生するという試算もある。非正規雇用だと貯蓄もできず、(ちゃんと納めていたとしても)基礎年金6万円だけでは生きていけないためだ。
そう考えると、3兆円というのはまだまだ1合目にすぎない。我々が「非効率な社会保障と正社員至上主義」という課題から目を背け続ける限り、この金額は年々上がり続け、最終的には消費税プラス10%級のインパクトとなって社会に跳ね返ってくるだろう。
もちろん、それは社会全体で担わねばならない。現役時代、年金未納者のツケまで含め、収入の2割近い保険料を天引きされ続けたサラリーマン諸兄は、ここでも最後のご奉公を社会から求められるはずだ。
そういう「誰がどう考えてもおかしいよね」的なバッドエンドが誰の目にも明らかになって初めて、我々は「改革への一線」を越えられるのかもしれない。
城 繁幸