「派遣村は予想外の反響だった」派遣ユニオン関根氏語る

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   この不況下で仕事と住まいを失った人たちの駆け込み寺として注目を集めた「年越し派遣村」。その実行委員会の中心メンバーである関根秀一郎・派遣ユニオン書記長が2009年1月22日と27日の両日、東京都内で講演し、派遣切りの実態や派遣村での活動について語った。

「派遣切りホットライン」から「派遣村」へ

派遣ユニオンの関根秀一郎書記長は「派遣社員はワーキングプアとして使い捨てられている」と待遇改善の必要性を訴えた
派遣ユニオンの関根秀一郎書記長は「派遣社員はワーキングプアとして使い捨てられている」と待遇改善の必要性を訴えた

   世界同時不況を背景に自動車関連企業などの"派遣切り"が一斉に進んだのを受け、08年11月29、30日に、派遣労働者の相談を受け付ける「派遣切りホットライン」が実施された。寄せられた相談件数は2日間で472件。関根書記長も東京で電話応対にあたったが、「4台の電話が鳴りっぱなし。受話器を置くとすぐに鳴る状態が続いた」という。

   12月に入ってからも、派遣ユニオンの電話は鳴り続けた。相談の内容は深刻なものが多く、「契約を途中で打ち切られ退寮を迫られているが、次の仕事も住まいも見つからない」という声が少なくなかった。

「このままではたくさんの人たちが路上に放り出されて、闇に紛れて死んでいってしまうと思った。長年ホームレスをやっていて路上で生きていくノウハウをもった人たちは別として、今回の派遣切りで路上に放り出された人たちは、寒さをしのぐノウハウを何も持っていない。そこで私たちが企画したのが『派遣村』だった」

   派遣村を企画したのは、NPO法人自立生活サポートセンター「もやい」の湯浅誠事務局長や労働弁護団の棗一郎弁護士、そして関根書記長ら有志10数名。12月中旬から下旬にかけて慌ただしく会合を重ね、実施を決定。記者会見を開くとともに、ネットカフェでチラシを配ってアピールした。

「たくさんのボランティアやカンパが救いだった」

   12月31日の派遣村初日。日比谷公園には予想をはるかに上回る数の人たちがやってきた。受付には100人以上が並び、最初からパンク状態になるほど人が集まった。失職後ネットカフェを泊まり歩いたものの所持金がつきて野宿生活に入ったという人や自殺しようとロープを持ち歩いている人など、さまざまな人がいた。

   なかには、今回派遣切りにあったわけではなく長期間路上生活を送っている人たちもいたが、派遣村では特に区別しなかった。

「最初からいろんな人が来るだろうと想定していたが、長期型のホームレスの人も受け入れることにした。長い野宿生活をしている人も、もともとは90年代の不況下で仕事を失った人が多いわけで、今回派遣切りにあった人と区別する理由はないだろうと考えた」

   村民登録をした人は12月31日から1月5日までの6日間で計505人。そのうち派遣村で「相談」をした人が354人。その内訳は次のとおりだ。

 派遣切りで仕事と住居を喪失 73人(21%)
 日雇い派遣をしていたが仕事がなくなった 57人(16%)
 派遣ではないが、不況の影響で失業状態 70人(20%)
 以前から野宿状態 33人(9%)
 生活保護受給させてもらえない 9人(3%)
 その他 103人(28%)
 無回答 9人(3%)

   このほか、ボランティアとして登録した人が12月31日~1月4日で1692人に達した。また、カンパとして5010万円が寄付され、3トン以上の米を始めとする大量の食材が届けられた。

「炊き出し用の食材はカンパだけで十分に成り立つほどだった。世知辛い世の中で、派遣村の人たちを救おうと並んでくれた人たちが山ほどいたのは、本当に救いだった」

   だが、関根書記長は安心しているわけではない。年度末にあたる3月末には、さらに多くの「派遣切り」が実施される見込みだからだ。

「この3月には、12月をはるかに上回る数十万人規模の派遣切り、期間工切りがある。そこで、また多くの人が職と住まいを奪われるが、こんな事態を放置していいのか。切られたあとの対策だけでは不十分。切らせないための対策が一番重要だと考えている」

と、関根書記長は数十人の聴衆に向かって訴えた。

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