「KY(=空気読めない)」が流行語大賞にノミネートされたのは2007年の暮れ。そんな言葉ももはや言い古された感のあるくらい、我々の日常生活において「空気」という要素は当たり前のものとして存在している。社内や校内の「空気」を読んで、言いたいことを我慢している人も多いだろう。でもそれが行き過ぎると、やがては真の対話や議論がなくなってしまう。そう危惧するのは、芥川賞作家の藤原智美だ。彼は新書『検索バカ』の中で、次のような例を挙げて「空気を読むこと」の危険性を指摘する。
人前では「空気」を読んでホンネは言わず
「検索」しすぎるとバカになる?
人と人が交わる、つながるというとき欠かせないのは対話です。何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、この対話ということが、この国においてはひどくむずかしくなっています。
私たちはいつのころからか、議論を避けるようになりました。日常的にいくらもあった意見を戦わせる場面はいつのまにか消えて、テレビのトークショーに代用されてしまったかのようです。
私の学生時代はささいなことも議論の対象になっていたように思います。高校1年生のとき、「ビートルズとローリングストーンズのどちらが正しいロックか」ということがテーマになったことが、ありました。
いまから考えると、そうとうバカバカしい問題のたてかたなのですが、そのころは真剣に議論した記憶があります。
「ビートルズはメロディラインをのぞけば、楽器も歌も下手くそで、ロックではない。だいたいライブをやらないロックってあるの?」
「ストーンズは商売気ばかりでダメ」
というようなことをいいあっていた。いまはどうも違うらしいのです。
「ビートルズ好きなんだあ」で終わり。相手の価値観と相反するような意見をいわない。「いうと傷つくから」だそうです。
20代後半のKさんは会社員ですが、彼女がいうには、
「なぜ、どうして?」という問いかけも、なるべくしないようにしているといいます。問いかけることは、相手を追いこむことにつながりかねないからだそうです。
あるときイタリアン・レストランで、料理の感想を知りたくてテーブルまで足を運んだシェフに、上司の女性が、
「私には少し塩がきつすぎた」
といった。
Kさんはびっくりした。
あっ、ヒハンだ! と思ったらしい。
ただしKさんも味が濃いと感じていた。でも彼女は、
「おいしかったですぅ」と答えた。
しかし家に帰って、口コミサイトで本音の感想を書きこもうと思ったといいます。
(藤原智美『検索バカ』〔朝日新書146~148頁〕より)
(会社ウォッチ編集者Sのひとこと)
空気を読むというのは「思索」の放棄だ、と著者はいう。他人の顔色を伺い、自分で「思索」せず、相手や仲間の意見を「検索」してそこに乗っかるだけ。
それは「検索」に頼る日常と共通点を持っている。インターネットの普及で、必要な情報は「検索」すれば手に入るようになり、大学ではレポートはすべてコピペで済ませてしまうという話も聞く。そうやって結果を「検索」で手に入れる過程においては「思索」が存在しないというのだ。
結局のところ「検索」に頼りきって「思索」を放棄することで、私たちはバカになっていくのではないか。この本においてはそんな文脈で「検索」という言葉が使われている。
全部で230頁ほどの本だが、明快な文章で、論理の流れが整然としているからとても読みやすい。昨今の「空気を読む」風潮に疲れた方はもちろん、それが当たり前と思っている方も是非。