最先端技術を取り入れ、日本のアニソン・J-POP界をけん引する 音楽プロデューサー 佐藤純之介
YMOに影響された初ライブ
――当時はどんな音楽活動を? プロデューサーとエンジニア、そしてサポートメンバーを務めているTECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUND(以下、TECHNOBOYS)とは30年来のお付き合いなんですよね。
ぼくの最初の本格的なステージへの出演は、TECHNOBOYSの松井(洋平 sampler・Vo)のソロライブのサポートメンバーとしてなんです。ほかのTECHNOBOYSのメンバーも一緒に出演したんですけど、当時ぼくらは、ちょうどYMOが再生YMOとしてアルバム『TECHNODON』(1993年リリース)を発表して、東京ドームでライブをやっていた頃だったから、まんまと影響されて「これから映像と照明だ!」とか言い出して。松井が徹夜でバイトして買ったプロジェクターを大量の楽器やパソコンと一緒に会場に持ち込んで、VHSテープの映像をプロジェクターに投影しつつ、4人で打ち込んだ曲とシンクロさせるライブをやっていました。照明を強くすると電圧が足りなくなってシーケンサー(演奏データを記録・再生する機器)が止まっちゃったり、パソコンが熱暴走しちゃうからって扇風機を持っていったり、再生YMOとは規模もクオリティーも全然違ったんだけど、そういう経験を通じて打ち込み主体でライブをやるノウハウや舞台度胸を身に付けていった感じですね。
――佐藤さんの高校時代はまさにバンドブームのまっただ中。みんなBO∅WYをコピーしたりしていただろうに、まわりには電子音楽マニアが集まっていた。すごく恵まれていますね。
もともとぼくとTECHNOBOYSのフジムラ(トヲル B・Vo)が同じ中学で、松井と石川(智久 Key・Vo)はぼくらとは別の高校の同級生。ただ、ぼくとフジムラが「バンドブームとかわかんねえよな?」って言っていた中学・高校時代、別の高校では松井と石川が同じことをボヤいていたらしいんです(笑)。松井とはシンセを始めてから通いだしたヤマハ音楽教室で出会ったんですけど、そのメンバーで学園祭に出ようよということになって。電子音楽しかやらない前提で集まっていたので、最初から話が早くてラクでした。
――しかも4人ともそのまま音楽を仕事にしている。
ところが、学校を出たばかりの頃のTECHNOBOYSにプロ志向はなかったし、活動も散発的。時々ライブをやっては、物販で自宅のパソコンで焼いたCD-Rを売るみたいなことしかしていなかった。で、ぼく自身はTECHNOBOYSの手伝いや自分のバンドをやりつつ、音楽制作の仕事をフリーで受けている状態。当時シーケンサーを使える人が少なかったこともあって重宝がられたんですよ。吉本興業のタレントさんのバックバンドをしたり、カンテレ(関西テレビ)で流れるCM音楽を作ったりとか。
――佐藤さん自身はちゃんとプロとして活動してたじゃないですか。
でも関西ってとにかくギャラが安くて(笑)。32チャンネル / 8バスミキサーを買って制作環境を整えても全然ペイできなかったので、まもなく別の業種のサラリーマンになるんです。で、そこそこ出世できていたので、一時は「オレの人生、こんな感じかな?」と思ったりもしたんですけど、27歳の頃「いやいやいや」となり......。一念発起して東京の音楽制作会社に転職しました。
――そして音楽制作の世界に?
いえ、そこでの仕事は所属の作曲家でもあった社長のマネジャーでした。ただ、1年くらい経ったとき「こんなことのために上京したんだっけ?」となり......。
――関西時代と同じ展開だ(笑)。
で、制作現場で活動するためにまずPro Tools(デジタル・オーディオ・ワークステーション用パソコンソフト)を買って。そのあとレコーディング機材一式を買うためにローンを組もうと思って社長に相談したら、なぜか「独立するつもりか!」と激ギレされまして......。
――あはははは(笑)。
でも、本当にエンジニアになりたかったから「オレはお前のマネージャーをするために東京に来たわけじゃねえんだよ!」とキレ返したら、今度は「ならお前のスタジオを作ればいいのか!」と返されたので「さようでございます」と。結果、半年後にいきなり自分のスタジオを持つチーフエンジニアになれました(笑)。そして"Pro Toolsが使えるエンジニア"として、大きなスタジオを借りるまでもない、パソコン上で制作作業を完結できる規模のものを中心に仕事が回ってくるようになったんです。