タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」松田聖子と松本隆
歌いこなした青春の輝き
1980年代リバイバルとでも言えそうな空気になっているのはここ数年だろうか。テレビや週刊誌などでもその頃の歌い手の特集やグラビアが組まれたりしている。
70年代にはサブカルチャーとして扱われていたフォークやロックなどの新しい音楽が歌謡曲のメインストリームになった。ヒットチャートが、そうしたアーティストの曲で占められるようになっていった。それが80年代だった。
そんな時代を象徴している歌い手が松田聖子だろう。1980年デビュー、81年の4枚目のアルバム「風立ちぬ」から88年の15枚目のアルバム「Citron」まで本人名義のアルバム全作がチャート一位、シングルも80年の3枚目「風は秋色」から88年の26枚目「旅立ちはフリージア」まで一位という記録は、その証だ。アイドルはシングルヒット中心というそれまでの概念を覆すことになった。
「Pineapple」(ソニー・ミュージックレコーズ、アマゾンサイトより)
「白いパラソル」以降の17枚がすべて1位
その最大の要因が、作詞家・松本隆の存在にあったことは言うまでもない。
彼が初めて松田聖子に作詞したのは、81年の3枚目のアルバム「SILHOUETTE~シルエット~」の中の「白い貝のブローチ」。シングルは、81年に出た6枚目「白いパラソル」。それ以降、80年代に彼が書いたシングル17枚は全て一位、全曲の作詞をしたアルバムも8枚。全て一位である。一人の歌い手と作詞家の関係としてこれだけ濃密な例は他になかった。
松本隆が、ロックバンド、はっぴいえんどのドラマー兼作詞家だったことに説明は不要だろう。大瀧詠一(G・V)、細野晴臣(B・V)、鈴木茂(G)、松本隆(D)。文学的で現代詩のような言葉をロックのビートに乗せた日本語のロックの元祖。バンドはオリジナルアルバム3枚を残して解散、彼はミュージシャン、プロデューサーの道を捨て作詞家になった。最初のヒット曲は、73年のチューリップの「夏色のおもいで」だった。それ以降、アグネス・チャン、太田裕美、原田真二、桑名正博など、立て続けにヒットを飛ばし、売れっ子作詞家になった。
ただ、当時、彼が「芸能界に身を売った」とフォークやロックの世界からバッシングされていたことは、もはや昔話だろう。音楽業界には「あっち側」「こっち側」という暗黙の境界線が引かれていた。松本隆は、その"川"を跨ぐ新しい橋を架ける先駆的存在だった。
彼が作詞した曲には、それまで"芸能界"とは無縁だったミュージシャン、作家が起用された。そのことが、日本のポップスの質を格段に向上させることになった。