「日常は音楽と共に」 クラシック音楽の代表的な形式
そして作曲家を困らせた「交響曲」
自ら台本を書いてオペラで一時代築いたワーグナー
これほどまで、交響曲という形式が作曲家を縛ったのは、なぜなのでしょうか? その答えは彼以後の作曲家それぞれの場合によって異なりますが、ベートーヴェンが作り上げた究極の9曲、特に第3番以降の革新的交響曲が、作曲家の内面や思想を、構造的に練り上げられた音だけの世界で、圧倒的に語ることができるから・・・と多くの作曲家が考え、同時に聴くほうの聴衆も感じたからなのかもしれません。ベートーヴェンが活躍した古典派の時代は、宮廷内部ではまだ「催し物を盛り上げる存在」としての音楽が主流でしたし、街で上演されるオペラはエンターテインメント性が問われました。そんな中で、ベートーヴェンは純粋な器楽の中でもっとも大規模な編成である「オーケストラ」を使って、人々に自分の哲学を感じてもらうことができたのです。彼は哲学書を読むのが趣味でしたし、欧州が革命と戦争に揺れた時期の作曲家だったので、常にそういったことを考えていたのです。そして、9曲の傑作を作り上げたために、以後の作曲家が、ベートーヴェンのようになりたい、彼のように「交響曲」を書いて、世に問うて、作曲家として認められたいと考えざるを得なくなったのです。
しかし、掟破りの「合唱」まで第4楽章に参加させて、圧倒的かつ革新的な「交響曲 第9番」を作り上げたベートーヴェンを超えるのは並大抵ではありませんでした。仕方なく、というべきでしょうか、後世の作曲家たちは、交響曲にいくつかの工夫をしてゆきます。
ざっくり、いくつかの傾向があります。ベートーヴェンの故郷であるドイツの、彼のあとに続くドイツロマン派の作曲家たち、例えば、メンデルスゾーンやシューマン、そして自他ともベートーヴェンの後継者とみられていたブラームスなどは、交響曲により親しみやすい要素を入れて交響曲を「自分の哲学的な思想を述べるだけでなく、自然の美しさなどより身近に感じてもらえる楽想を入れ、納得して聴いてもらえるもの」にしようとした努力の跡が見られます。しかし、彼らはいわばベートーヴェンの作り上げた交響曲の構造の忠実なフォロワーであり、交響曲自体の構造改革には手を付けませんでした。
また、隣国フランスのベルリオーズ、ハンガリー生まれのリスト、ドイツのリヒャルト・シュトラウス、といった人たちは、ベートーヴェンが第九で交響曲に入れた「言葉」を重視し、すでに存在する文学作品を音で表現するような形式「交響詩」を作っていきます。いわば、交響曲に、作曲家の思想だけでなく、文学者の書いた「物語」を背骨として取り入れていこうとしたわけです。この系譜に、R.ワーグナーもいますが、彼は、交響曲という純粋器楽音楽からは離れ、自ら台本も書いて「楽劇」と呼んだオペラの世界で一時代を築きます。