「日常は音楽と共に」 人気急降下したモーツァルトは必死だった
「ピアノ協奏曲 第27番『戴冠式』」
日本は、いよいよ天皇譲位と新天皇即位という儀式が迫り、平成の時代から令和の時代に切り替わります。日本にとって、大きな一つの時代の節目であり、宮中の行事から、一般の我々の年号切り替えの作業まで、いろいろなことがあるわけですが、クラシック音楽の古典派の時代、欧州には、まだまだ皇帝や王や貴族がたくさんおりました。そして、そういった王侯貴族関連の行事は、当時の音楽家にとって、重要な仕事の機会を与えてくれたのです。
今日は、「戴冠式」のニックネームを持つ、モーツァルトの曲を取り上げましょう。モーツァルトの最後から2番目のピアノ協奏曲「第26番 ニ長調 K.537」です。
数多く残っているモーツァルトの自筆譜からはいろいろなことが推測できる
自費でフランクフルトに乗り込んだ
この曲が「戴冠式」と呼ばれるようになったのは、1790年、母、マリア・テレジアとハプルブルグ帝国を共同統治したヨーゼフ2世がなくなり、彼に嗣子がいなかったために、帝位を継承することになった弟レオポルド2世が皇帝として戴冠する・・・その場合はウィーンからフランクフルトに赴くのですが、そのフランクフルトの「戴冠式フィーバー」のブームにのって、演奏会が開かれ、モーツァルトはそこでこの曲を演奏した、と言われているからです。
実際に、その「戴冠式」に正式に宮廷から依頼があって招待された音楽家は、宮廷楽長のアントニオ・サリエリ(映画「アマデウス」でモーツァルトを毒殺する黒幕の犯人として描かれていますが、現在では事実無根とほぼ断定されています)のみで、「ヒラ」の宮廷音楽家だったモーツァルトは、招待されていませんでした。現在でもオーストリアのウィーンからドイツのフランクフルト・アム・マインに行くとなると結構な距離ですから、当時ではかなりな「大旅行」だったはずですが、モーツァルトはなんとその旅費を自腹で負担し、フランクフルトに乗り込むのです。
ちなみに、この時サリエリは招待されているのに、モーツァルトは招待されていないので、「サリエリの嫉妬による妨害工作で、モーツァルトは呼ばれなかったのだ」と邪推され、上記の毒殺説などが出てくる原因となっていますが、これは純粋に地位だけの違いで、サリエリはモーツァルトの作曲の腕を買っていたらしく、彼はフランクフルトでモーツァルトの「戴冠式ミサ K.317」を取り上げて演奏していますから、モーツァルト本人は純粋に「呼ばれなかっただけ」のようです。
それでも大枚をはたいて、フランクフルトに乗り込んだのは、切迫した事情があったからです。故郷ザルツブルグの大司教に離反する形でウィーンに出て、あまり収入の伴わない宮廷作曲家の地位は得たものの、実際はフリーの作曲家として、レッスンをしたり、オペラを書いたり、室内楽作品を書いて「予約演奏会」という形式で発表したり、ということをして生活していたモーツァルトでしたが、1787年、すなわちモーツァルトが31歳のあたりから、なぜかウィーンでの人気が急降下していたのです。現代では、彼の代表作オペラとして愛されている「フィガロの結婚」も、帝国内の別の都市、現在はチェコの首都プラハでは爆発的なヒットとなり、モーツァルト自身も熱狂的に迎えられましたが、なぜか帝都ウィーンでの観客の反応はいまいち、上演回数も次第に少なくなり、ついには全く演奏されなくなります。帝国内の「田舎町」プラハでの成功は満足できなかった、ということと、一番の大金をもたらしてくれる「首都ウィーンでのオペラの大ヒット」を夢見るモーツァルトは、この辺りから、経済的苦境も伴って、必死になります。・・・そんな背景もあって、1790年のモーツァルトは「自腹で旅費を工面してでも」フランクフルトに出かける必要があったのです。