「日常は音楽と共に」 ショパンの青春の旅立ち「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」
日本は4月から「新年度」となりますから、3月は卒業シーズン、4月は新入学・新学期シーズンですね。咲きほこる桜が卒業式、または入学式にいろどりを添え、思い出を作ってくれます。欧米のように9月を新学期とするという提案もありますが、桜と共にある日本の春の風景がある限り、なかなか難しいような気もします。
今日は、そんな時期に聴きたい、「ピアノの詩人」フレデリック・ショパンの代表的作品を取り上げましょう。「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」です。
「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」の前半はノクターンのように、静かでメロディアスな曲である
後半のポロネーズ部分、ピアノ独奏版の楽譜では、協奏曲版でオーケストラによって演奏される部分は小さな音符で記譜されている
ウィーンでのやりきれない思いをピアノにぶつける
ポーランドに1810年に生まれたショパンは、若くして才能を発揮し、ワルシャワ音楽院を卒業してすぐ、外国に出ます。それは、彼の才能は欧州の辺境国ポーランドに置いておくのは惜しいと考えられたことと、祖国ポーランドには革命の機運がみなぎっており、戦乱が巻き起こるかもしれないと周囲が、その才能を一層光らせ、さらには混乱から守るために送り出した・・というような事情が背景にありました。
ワルシャワ音楽院では院長のエルスネル先生直々に教えを受けていたショパンは、恩師や友人の見送りのもと、ポーランドを後にします。しかし、彼が最初に向かったのは、のちに人生の後半を過ごすことになるフランスではなく、「音楽の都」ウィーンでした。
革命前夜の祖国に別れを告げて、ウィーンにたどり着いたショパンは、演奏会に出演し、自作を披露したりして、歓迎され、活躍しました。しかし、いったん祖国へ戻り、もう一度、前回以上の成功を夢見てウィーンに現れたものの、今度は、ひどく冷たく扱われました。なぜなら、祖国ポーランドでは、ついに対ロシアの蜂起がおこり、同じく大国のメッテルニヒ体制のオーストリアでは、ポーランド人は冷たく扱われたということ、当時のウィーンでは、ショパンも敬愛するモーツァルトやベートーヴェンの音楽より、シュトラウス親子などの「ワルツ」のほうが大流行していた、ということ。そして、なにより音楽の都であるだけに、タールベルクなどの「派手なピアニスト」がすでに活躍していて、ウィーンの人は食傷気味であり、線の細いショパンは、ピアニストとして人気を獲得するまでに至らなかった、ということなどが原因でした。
まだ20代前半の多感なショパンは、祖国はロシアに蹂躙されて国境が封鎖され、帰れなくなっただけでなく、ウィーンでの冷たい仕打ちにもあって、社交の場では明るくふるまうものの、自宅では、そのやりきれない思いをピアノにたたきつけたのです。皮肉なことに、ピアノに思いをぶつけたショパンは、この時期から、傑作を次々に生み出し始めます。
その中に、1曲のポロネーズがありました。フランス語で「ポーランド風の」という意味である「ポロネーズ」は、同じポーランドの舞曲でも、民族舞曲といえる「マズルカ」よりも直接的に「ポーランド」を表現します。祖国は燃えているのに、自分は異国の地で無力さを感じている・・・この時期のやるせない思いのショパンにとって、特別な「ポロネーズ」であったことは間違いありません。