14年間ふるさとに帰れない現実が、ある。
福島県浪江町津島地区。2011年3月11日、東京電力福島第一原発の事故で町民は避難を余儀なくされた。同地区では今日に至るまで、98.4%が帰還困難区域のままだ。人々の話し声は途絶え、主を失った家は荒れ、草木は伸び放題。帰りたくても帰れず故郷を諦める住民が少なくないなか、今野秀則さんは、旅館だった自宅を残す決断をした。
「家を残すにも壊すにも、覚悟が必要」
明治時代から続く旅館「松本屋」。今野さんは4代目だ。木造の立派なたたずまい。現在は、避難先の大玉村から車で1時間ほどかけて、月に1度は戻ってくると話す。建物内の換気や掃除、被災地案内の対応をしたりしている。
近所に住民の気配は、ない。住居がそのまま残されている場所もあるが、すでに解体撤去を決めたケースも少なくない。
「家を残すにも壊すにも、覚悟が必要。心の痛みがあるんです」
今野さんは、こう語った。
津島地区では2023年3月31日、特定復興再生拠点区域に限って避難指示が解除された。だが地区全体のわずか1.6%しかない。同地区の面積は、JR山手線の内側の約1.5倍という。その広大なエリアのほとんどが、いまだ人が住めない状態なのだ。
拠点区域外については、避難指示を解除し、住民の帰還・居住を可能とする「特定帰還居住区域」の整備が進められている。だが今野さんによると、津島のなかでも羽附行政区では除染が始まったものの、いつ住民が帰還できるか時期が示されず、他の行政区では除染の時期自体が明らかになっていないという。
いまだ帰れず、いつ帰れるか見通しもたたない。避難先での生活が5年、10年と続けば、どこかで区切りを付けなければと考える人も出るだろう。
今野さんは、「松本屋」を残す決断を下した。
「私で4代目になりますが、家には代々受け継がれてきた歴史や思い出がある。地域全体では、さらに長い歴史があります。それをすっぱり諦めていいのか、いや、決してそうじゃないと思ったのです」
我慢だけではいけない、責任の所在を明らかに
2015年9月、津島地区の住民の約半数が原告団を結成して、国と東京電力を相手取り福島地裁郡山支部へ提訴した。「ふるさとを返せ」訴訟として、原状回復と損害賠償を求めるものだ。今野さんは、原告団の団長を務める。
この裁判の根底には、「怒り」があると今野さん。土地、住まい、人間関係、自然......津島の地で長い年月をかけて育まれてきたものだ。原発事故後、住民は避難指示で故郷を離れざるを得ず、多くの苦しみや悲しみを抱えてきた。「その痛みを、ただ我慢するだけではいけない。責任の所在を明らかにして、対策を講じ、二度と同じ事故を起こしてはならないんです」と訴える。
一審では国と東電に、総額約10億円の支払いを命じる判決が出されたが、原状回復請求は却下された。原告側は21年8月、仙台高裁に控訴し、今も裁判は続いている。
津島で共に暮らしてはじめて伝承できるものがある
一方で、ふるさと津島を後世にどう残していくかは大きな課題だ。書籍や映像といった形で記録を残し、広く知ってもらう活動はすでに行っている。
伝え残したいもののひとつが、「津島の田植踊」だ。300年ほど前に地域に伝わり、豊作を祈る民俗芸能として上津島、下津島、南津島、赤宇木(あこうぎ)の4集落で連綿と受け継がれてきた。原発事故後、住民は避難で散り散りになっても懸命に保存活動を続けている集落の住民もいる。伝承のため進学先の大学で田植踊を紹介し、広めようと努力している若者も出てきた。
なんとかして地域文化や伝統を継承していきたい。ただ、
「全ては難しい」
と今野さん。津島という場所に人々が暮らし、日々を過ごしながら共同で生み出したり、受け継いでいったりする日常の細かな風習までは、伝えようがないというのだ。
津島の大部分がいまだ、住民が帰れない現実。震災から14年で、亡くなった人も少なくない。別の地域での生活が長期化し、元の家を取り壊した人もいる。そのなかで「昔と同じ地域社会は取り返せません。それでも、ふるさとに根差した住民の生活が戻ってくれれば」と今野さんは願う。(J-CASTニュース 荻 仁)
東日本大震災から14年。長い年月を経て記憶の風化が進み、当時を知らない世代は年々増えています。
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