「若返り」図るも自身は代表取締役
読売グループは、元内務官僚の正力松太郎氏(1885~1969)が中興の祖。そのあとを「番頭」で販売出身の務台光雄氏(1896~1991)、さらに正力氏の娘婿で元内務・自治官僚の小林与三次氏(1913~1999)が引き継ぎ、「長期政権」が続いた。
渡邉氏は60年代に、東京・大手町の、いまの読売本社がある国有地払下げ問題で政界工作を担当。読売への払下げで成果を上げ、務台、小林両首脳の信頼を得た。「務台さんは父、小林さんは師」と常々語り、90年代に入ると、ほぼ全権を掌握した。
記者出身だったこともあり、新聞の「紙面」や「言論性」にこだわった。
憲法問題のみならず、安全保障大綱、内閣・行政機構改革大綱など、従来の新聞の枠を超える同社の大胆な提言をトップダウンで主導した。(日本では)「昔に比べると、政界・経済界、官僚、学者、文化人も含めてリーダーシップが欠如している。マスコミ・言論界こそが、国の将来像を示し、国民を啓蒙する使命と責任がある」というのが持論だった。
そうした紙面運営については、「不偏不党・公正中立・公器としての新聞」から逸脱しているのではないかという批判や疑問がつきまとった。元論説委員の前沢猛氏(91年退社)はのちにブログで、「『社論』の主張は、本来、論説・社説の範疇に属すべきであるのを、渡辺(邉)氏は、事実報道に徹すべきニュース報道面にまで広げ、ニュースと論説の枠を外し、混在させてしまった」と指摘した。
また、大阪読売で人権や平和問題にこだわった元社会部長の黒田清氏(87年退社)は、「今の読売は権力にすり寄ってるなんてもんじゃない。権力者が新聞をつくっているんだ・・・読売をそんな新聞にしてしまったことが残念でならない」と嘆いた(魚住昭著『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社、00年刊)。
社内の競争相手や批判者を次々と退けて「ナベツネ帝国」を築き、近年、グループ内は一枚岩と見られてきた。ところが11年11月、身内のはずの清武英利巨人軍代表(当時)が記者会見を開いて公然と渡邉氏を批判。「清武の乱」として世間を驚かせた。