改憲キャンペーンと戦争責任追及
経営トップとなってからも、社論全体をつかさどる「主筆」の肩書を保持し、元旦の社説を書くなど読売新聞の紙面全体の論調を決めてきた。
とりわけ憲法改正にはこだわり、まだ世論が消極的だった90年代初めから、改憲キャンペーンを積極的に展開。それまで半ばタブー視されていた改憲論議の旗振り役となり、改憲への道筋づくりに力を注いだ。
一方で、自民のタカ派「青嵐会」とは一線を画し、首相の靖国参拝には否定的だった。
「歴史認識を間違えさせる施設が(靖国神社の)遊就館だ」「A級戦犯のうち、少なくとも東条英機元首相ら何人かは無謀な戦争を企てた。何百万人の国民を殺した人間がいるのに『無数の英霊のため』という理由で首相が靖国神社に行くのは理解できない」と言い切り、「無宗教の国立追悼・平和祈念碑の建設を」と主張した(2005年11月25日、読売新聞)。
また、戦争責任を問うことにもこだわった。05年には社内に戦争責任検証委員会を発足させ、戦前の軍部や内閣の責任を追及。検証内容を公開した。
「過去の指導者の間違いの歴史を検証することは読売新聞の社論の柱だ」とし、「歴代首相は優柔不断ではっきりとした謝罪の仕方を示さなかった。できれば国会に戦争責任検証常任委員会を」と提唱したこともあった(06年3月24日、読売新聞)。
『渡邉恒雄回想録』(中央公論新社)や『わが人生記』(中公新書ラクレ)などによると、戦前の東京・開成中時代から、反戦・反軍的な言動で学内では目立っていた。
旧制東京高校に進んでからも軍国主義的な教育を押し付ける校長らを殴るなど反抗した。「君が代」は歌わなかったという。戦争末期には二等兵として徴兵されたが、敗戦必至と確信、「軍人勅諭なんてバカバカしくて読まなかった」。
軍隊では毎日のように古参兵から殴る蹴るの制裁も受けた。「開戦時の閣僚は許せないんだよ」「僕らの仲間が特攻隊で殺されていったんだから」との思いは人一倍強かった。
そんなこともあり戦後まもなく、「天皇制打倒」という共産党のビラに共鳴して入党。一時は東大の中心的な学生党員として精力的に活動した。のちに党の方針に根本的疑問を感じ、離党、除名となったが、「一年か二年、非常に思想的に苦しんだ」と回想している。