「ドラえもん」で親しまれた大山のぶ代さん。あの独特のダミ声は「地声」だった。
子どものころは皆にからかわれ、辛い思いをした。開き直って部活は放送部に入り、やがて声優として大成功した。コンプレックスを逆にプラスに変えた人生だった。
人並み外れて丈夫な声帯
大山さんの著書『ぼく、ドラえもんでした。』(小学館、2006年刊)には、幼少時からの「声」にまつわる泣き笑いが記されている。
5歳で幼稚園に入園した時。自分の名前を呼ばれて勢いよく「ハーイ」と返事したら、後ろの席にいたお母さんたちがざわめいた。大山さんのそばまで来て、顔をのぞきこんだ人もいたとか。女の子のはずなのに、声が男の子――。
心配した大山さんの母親は、娘を連れて東大病院や慶応病院など大病院を回った。結論は、「なんら異常なし」。むしろ人並み外れて丈夫な声帯、とほめられた。
しかし、学校ではつらい思いをした。特にひどかったのは中学時代。男子たちから「お前、ヘンな声だな」とバカにされた。授業中に先生に当てられ、発言を始めると、教室中にクスクス笑いが広がる。ちょうど思春期。学校では誰とも話さず、だんだん無口になった。授業が終わると、逃げるように帰宅する毎日が続いたという。
放送劇でシンデレラの「まま母」の声が評判に
そんな大山さんの背中を押したのは、母のアドバイスだった。「弱いところをかばっていると、どんどん弱くなる。声が悪いからといって、黙っていたら、しまいには声が出なくなる。むしろ、何か声を出すクラブ活動に参加して、どんどん声を使いなさい」。
意を決して大山さんはまず応援部へ。女子は採らないというので、放送研究部に入る。毎日、マイクで校内放送を担当し、放送劇もやった。そんなある日、演劇部から声がかかる。秋の文化祭で「シンデレラ」をやるので出てほしいというのだ。もちろん大山さんの役は「まま母」だ。
「あんな怖いまま母、初めて見たわ」
「ドスの効いた声で、ものすごくよかった」
学校中で評判になり、そのまま演劇部にも入ることに。こうして大山さんの新しい人生の幕が開いた。
1974年、ドラえもん」スタート。ほどなく原作者の藤子・F・不二雄さんが声優たちの録音スタジオを訪れた。「先生、あのー、私、あれでいいんでしょうか」。大山さんは恐る恐るたずねた。
「ドラえもんって、ああいう声だったんですねえ」
原作者から、声優冥利に尽きる答えが返ってきた。そうして、ドラえもんとの人生が26年も続くことになった。
子供がいなかった大山さんの家はドラえもんだらけ。グッズはすべて集めた。自室の目覚まし時計の声も「ドラえもん」だった。
「まだ起きないのッ、早く起きなさいッ!」
「今日は君のお誕生日でーす。パンパカパーン おめでとう~」
元気だったころは、大きなあの声で、いっしょにしゃべりながら起きていたという。