歌手・中森明菜さんの完全復活が目前に迫っているかもしれない。2024年4月16日、サンケイスポーツのニュースサイト「サンスポ」などが、中森さんが7月13日にファンクラブ会員向けにイベントを開催すると報じた。
このニュースはインターネット上を駆け巡り、X上でも一時「中森明菜」がトレンドワード入りするほど盛り上がった。
1982年5月1日にシングル「スローモーション」でデビューしてから42年――本格的な復活が期待される中森さんの名作の数々から「シングル曲」にスポットをあてて振り返りたい。
歴史に残るシングル曲10選
中森明菜
歌手。女優。
1965年7月13日生まれ、東京都出身の日本人。
1981年に、オーディション番組にて山口百恵さんの「夢先案内人」を歌い、放送開始10年の中で歴代最高得点で合格。翌年1982年5月1日に、「スローモーション」にてデビュー。1985年には「ミ・アモーレ」 、1986年には「DESIRE」 で2年連続日本レコード大賞を受賞。その他にも数々の楽曲を発表。1990年代には、「素顔のままで」や「冷たい月」などテレビドラマでは、女優としての活動も活発に。「冷たい月」の希代加役は、最も感情移入した作品。コンサートライブやディナーショーを精力的に行うも、2010年より体調不良を理由に無期限の音楽活動の休止を発表し、2022年現在も体調回復に専念中。一方で、デビュー40周年としてファンのみなさまにメッセージを届けたく、Twitterと本ウェブサイトを開設。さらに、本ウェブサイト上で新たなファンクラブとして、中森明菜 OFFICIAL FANCLUB:ALDEAもオープン。
(中森さんの公式サイトより引用)
「少女A」 1982年7月28日リリース
「少女A」 1982年7月28日リリース 中森さんにとって2枚目のシングルにして、初のチャートトップ5入りを達成した。この曲で「ザ・ベストテン」(TBS系)、「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)といった人気音楽番組に初出演を果たした。
「セカンド・ラブ」 1982年11月10日リリース
「セカンド・ラブ」 1982年11月10日リリース 中森さん初のチャート1位を獲得した楽曲。前作の「少女A」から打って変わって、作詞作曲を手掛けた来生えつこさん・来生たかおさんによる浮く強いバラードで中森さんの人気を確固たるものにした。
「北ウイング」 1984年1月1日リリース
発売当時、杉山清貴&オメガトライブの楽曲で注目を集めていた康珍化さんが作詞、林哲司さんが作曲を手掛けた。リリースから40年経っているが、今でも「北ウイング」がある成田国際空港にいくとこの曲を思い浮かべる人が少なくない。
「サザン・ウインド」 1984年4月11日リリース
オリコン週間シングルチャートで1位を獲得するなどヒットを記録。作曲を手掛けたのは、発売当時「ワインレッドの心」を大ヒットさせていた安全地帯の玉置浩二さんだ。
「飾りじゃないのよ涙は」 1984年11月14日リリース
言わずと知れた中森さんの代表曲の1つ。シンガーソングライターの井上陽水さんが作詞作曲を手掛けた永遠の名曲として人々の心に刻まれ続けている。
「ミ・アモーレ [Meu amor é...]」 1985年3月8日リリース
1985年12月31日に行われた「第27回日本レコード大賞」で中森さんにとって初の大賞を受賞した。中森さんの絶頂期にリリースされた楽曲の1つと言える。
「DESIRE -情熱-」 1986年2月3日リリース
1986年12月31日の「第28回日本レコード大賞」で2年連続となる大賞を獲得。中森明菜という歌手の地位を不動にした歴史に残る名曲だ。
「難破船」 1987年9月30日リリース
元々はシンガーソングライターの加藤登紀子さんが自身のアルバム「最後のダンスパーティ」に収録していた楽曲だった。加藤さんの希望によって中森さんが歌い、新たな命が吹き込まれた。
「TATTOO」 1988年5月18日リリース
1988年にリリースされたシングル曲を、2024年にジャズに大胆アレンジしてセルフカバー。ネット上で話題を集めた。
「BLONDE」 1987年6月3日リリース
「TATTOO」同様に、デビュー42周年企画として2024年にセルフカバーされた。24年4月16日時点で最新の中森さんの動画となっている。