「格好悪いけれども、やさしい言葉で説明すれば...」
現地の語学学校に通いながら少年野球教室を手伝い、サンディエゴ州立大学野球部に自らを売り込み、雑用係の仕事を得た。
グラウンドの整備からボール拾いまで雑用をこなすかたわら、ベンチ入りが認められ、高いレベルのコーチと本格的な野球の話ができる環境に身を置いた。
ここで「生きた」野球用語を習得した篠田氏は、メキメキと英語力が上がったという。
米国での語学留学後、当初の目的であったカナダに渡るつもりだった。その話をサンディエゴ州立大学野球部のコーチに伝えたところ、カナダの独立チームを紹介してもらう。
チームのオーナー宅にホームステイしながら、記録係やブルペンキャッチャーなどをこなした。
1年間、みっちり英語を勉強して8月に日本に帰国。塾講師のアルバイトをしながら日本球団の通訳求人を待った。
篠田氏は当時をこう振り返る。
「アメリカとカナダでの2年の語学留学で自信がなかったら、日本に帰国していなかったと思います。
自信というか、ひとつ自分で納得ができたのは、ひとつの難しい言葉を知らなくても、かみ砕いたやさしい単語で説明できるようになったこと。これだったら、なんとか通じるかなと思うようになりました。
格好悪いけれども、やさしい言葉で説明すれば、自分が何を言っているか、相手が理解してくれるという実感が持てました。
野球の話でわかりあえたので、もしかしたら通訳の仕事も十分にやれるのではないかと思うようになりました」
1997年11月、高校時代の野球部の恩師から西武が通訳を募集しているとの知らせがあり、すぐに応募した。学生時代に英検を受けたことがなかった篠田氏にとって、英語力を証明するものは何もなかったという。
とはいえ、2年間の語学留学で習得した実践の英語力だけを頼りに、試験を突破する。そして、契約社員として通訳の仕事を得た。27歳だった。球団との契約は1年で、都度契約を更新していくシステムだった。
夢は叶ったが、現実は厳しかった。
いつまでたっても流暢に英語を話すことができず、自信を失った。通訳として働いた5年間のほとんどの期間を2軍で過ごし、1軍での通訳はわずか数試合。自身の限界を感じて西武を退団した。