宮城県石巻市。東日本大震災で甚大な被害に見舞われたこの地から、能登半島地震の被災地に入り住民の支援にあたっている人たちがいる。
近年、日本全国で自然災害が多発している。被災を経験した自治体から、困っている人の救援に行くケースが増えてきた。それ自体は素晴らしい。一方、長い月日を要する暮らしの再建にどこまで、どれほどのサポートが求められるのか、課題もある。
身の危険を感じるほど、覚悟が必要な現場
「BIG UP(ビガップ)石巻」は、東日本大震災で被災した石巻での支援を目的に2012年4月、設立された。地域活動に加えて、15年9月に水害が発生した茨城県常総市、16年4月の熊本地震、18年6月の大阪北部地震ほか災害被災地で、復旧の手助けをしてきた。
24年元日、能登半島地震。BIG UP石巻の代表理事、阿部由紀さんは翌日に石巻を出発し、翌1月3日に石川県珠洲市に入った。阿部さんは東日本大震災の際、石巻市社会福祉協議会で、災害ボランティアセンターの運営に力を尽くした人物だ。発災から4日後の11年3月15日に設置されたボラセンで、がれき撤去をはじめ復旧活動をリードした。
珠洲市の阿部さんから、現地のニーズを聞いて物資を調達し、輸送を担ったのが、前代表理事で現・石巻市議の原田豊さん。現地で炊き出しができるよう、日持ちのする野菜を中心とした食材を準備した。実は物資の調達は、難しい面がある。現地のニーズは刻一刻と変わり、善意で寄せられたものが必ずしも合致しない場合があるからだ。「確実に必要とされているもの」だけを集め、24年1月5日に能登へ向かった。
現地事情を考慮し、原田さんは金沢市を拠点に輪島市や珠洲市へ毎日、支援物資を運搬する役目を担った。現地入りすると、目の前に広がる被災状況に圧倒された。
「レベルが違いました。身の危険を感じるほど、覚悟が必要な現場でした」
道路はあちこちで崩落、寸断し、巨大な岩が車線を防ぐ場所も。マンホールは隆起し、水道管はメチャメチャで、この点は東日本大震災の石巻よりもひどい状態に見えた。断水は、いつ解消するか見当もつかない。原田さんは、市議会が始まる前の1月12日まで、早朝に金沢を出発、被災地で必要とされる物資を毎日運んで回った。
民間団体は疲弊「我々はいつまで、このままなのか」
代表理事の阿部さんは経験を生かし、珠洲市に滞在してボラセン運営にかかわる業務を広く担う。この点、原田さんはじめ「物資運搬チーム」と役割を分担した。
現地で必要とされるのは、「モノ」だけではない。2月に入ると、「BIG UP石巻」の姉妹団体「BIG UP大阪」が、シャワーや洗濯機を使える設備を珠洲市に設置した。「水が出ない状態が続き、避難所を衛生面で改善したかった」と原田さん。シャワーは、利用登録者が日ごとに増え、手ごたえを感じている。
ただし、長期運営には課題もある。大量の水を確保し、トラックで運搬する人手が足りない。増員したくても、今度は寝泊まりする場所がない。当然、資金も必要だ。
BIG UP石巻に限らず、原田さんは「支援者の疲弊」を危惧する。民間団体が炊き出しのように、避難者の命に直結する活動を担っているのに、行政から資金や人的サポートを提供されない。それが常態化し、「我々はいつまで、このままなのか」と嘆く声も聞こえてくるという。
無論、被災者支援を惜しむ気持ちは、みじんもない。行政の手が回らないところは、進んでサポートに回る。だが発災から2か月を過ぎても好転しない状況に、「これが『当たり前』と思われては......。私たちも、早く本来の支援活動に移行したい」と原田さんは吐露する。
現地に足を運び、かかわりを増やす
発災後、珠洲市のほぼ全域で断水が続いていたが、3月10日に一部地域で水道が復旧した。飲食店も徐々に営業を再開している。希望の光は見えてきた。しかし、石巻をはじめ大型災害の被災地を見てきた原田さんは、「生活再建の道のりは、険しく長い」と感じる。
「被災した人と同じ気持ちになんて、なれません」
遠くの場所で起きた災害を「自分事」にするのは、難しい。だからこそ現地に足を運び、かかわりを増やすのが大切なのだと原田さんは感じている。近年の災害頻発は心配だが、「寄付をしよう」「ボランティアに行こう」と、自分で何が貢献できるかを考える人は、東日本大震災当時と比べて確実に増えている。
「人を思いやる気持ちが、日本全国にあってほしい」
石巻は東日本大震災で最大の被害が出た。同時に、多くの支援を受けた。だから恩を返していかないといけない――最後に原田さんは、こう述べた。(J-CASTニュース 荻 仁)
(この連載おわり)