「故郷に帰りたかったか? それどころじゃなかったですよ。自分のことを考えている余裕は、ありませんでした」
今野千代さんは、東日本大震災で被災、避難を余儀なくされながら、看護師として診療所で連日、任務にあたった。患者としてやって来る同郷の避難者。ふるさとに帰れないつらい気持ちを、「この人たちを何とかしないと」という責任感が上回っていた。
1次、2次避難、仮設で臨時の診療所
地元は浪江町津島地区。町の西部にある山あいの地域だ。2011年3月11日、地震で大きく揺れたが停電は起きず、海から遠く離れているので津波も来なかった。1974年から務める「浪江町国民健康保険津島診療所」で、勤務を続けていた。
ところが――。その日のうちに町の他地域から続々と被災者が避難してきた。翌12日にはさらに増える。「なんで津島に来るのか」。当初不思議に思った今野さんが、東京電力福島第一原発の事故を知ったのは診療中。テレビで流れた1号機原子炉建屋の水素爆発の映像で、視聴していた人が「おおっ」と驚きの声を上げたからだ。
当初、津島が町民の避難先に選ばれた。原発から離れているためだ。ところが後で分かったが、放射線量が極めて高い場所だった。3月15日、町長は原発から半径20キロ圏外全域に避難指示を発令。今野さんは二本松市の親類のもとへ身を寄せた。
二本松市内に、学校体育館はじめ複数の避難所が開設された。そのひとつ「東和生きがいセンター」に、津島診療所の医師、スタッフ数人が臨時の診療所を3月19日に開設した。今野さんも、メンバーの一人だ。
当時のエピソードは、枚挙にいとまがない。「下駄箱をカルテの棚に使った」「避難所の体育館は床がとても冷たく、段ボールを敷いた」「支援物資でカップ麺がたくさん配られた。ずっとカップ麺を食べた」。毎日、朝食後すぐ診療所へ出勤し、終わるのは夜21時ごろ。土日祝日は、返上だ。
臨時診療所は4月15日に閉鎖。同18日、2次避難先となる二本松市岳温泉のホテルに改めて「岳温泉仮設津島診療所」を開設し、医師・看護師が引き続き診察を続けることになる。今野さん自身も住まい、職場ともに引っ越した。さらに9月、市内に「安達運動場応急仮設住宅」が完成すると、診療所もまたもや移転する。
能登の被災者は「私たちより、大変です」
2013年3月に、今野さんは退職した。震災から2年が過ぎていた。
「2年で10年分は働きました」
17年には福島市に居を構えた。ふるさと・津島で「特定復興再生拠点区域」の避難指示が解除されたのは、23年3月31日。つい最近、しかもごく一部地域なのだ。「一時帰宅」で墓参や旧家の様子を見に、時折訪れてはいたが、本格的な帰還を思い描いても、子どもたちのことを考えると現実的ではなかった。
能登半島地震について、聞いてみた。現在、故郷から遠く避難している人は数多い。インフラ設備が壊滅し、自宅が大きく損壊していたら、戻るまでに時間がかかるだろう。
「私たちより、大変です」
2次避難、仮設暮らしを経験した今野さんは、能登の被災者の気持ちに寄り添った。
避難先の数多くの記録、看護師の免状、町長からの感謝状、さらに若いころ、看護師の帽子を初めてかぶった思い出の写真まで見せてくれた今野さん。当時を懐かしみながら、津島の生まれ育った家のアルバムを開いたとき、ポツリとこう、つぶやいた。
「帰りてえな」
大きく立派な日本家屋だったが、すでに解体したと明かす。気持ちは今も、津島にあるように思えた。(J-CASTニュース 荻 仁)