大規模災害では、自治体が体育館や公民館を避難所として開設する。一時的な滞在で済めばよいが、自宅が被災して住めなくなれば、当面の生活の場となる。仮設住宅の建設は、時間がかかる。その間、ホテルや旅館が「2次避難所」として提供される。2024年元日に起きた能登半島地震でも、多くの被災者が2次避難所を利用している。
東日本大震災では、津波や東京電力福島第一原発の事故で、突如ふるさとを追われ避難を強いられた人が大勢いた。避難先で、少しでも暮らしを豊かにしようと努力した人がいる。
避難者を班分けして役割分担
福島県浪江町の住民は、原発事故により住む土地を追われ、何年にもわたって翻弄された。町内で種苗店を営む佐藤秀三さんも、その一人だ。
11年3月11~12日にかけて、避難指示の対象地域は福島第一原発から半径3キロ圏内、10キロ圏内、20キロ圏内と目まぐるしく変わった。佐藤さん一家は、同じ町内だが自宅から遠く離れた津島地区へいったん避難。だが、その後さらに二本松市に移ることになる。「全く情報が入ってこず、携帯電話の電波状況も悪い。テレビの報道で、状況を把握するありさまでした」。
避難所に指定された体育館に入ったのが、3月15日夕。「着の身着のまま」だった。翌日、支援物資が配られると、奪い合いになった。「これではダメだ」と危機感を持った。
佐藤さんは地元行政区の区長を務めていた。商売柄、顔が広い。体育館には、知人が何人も避難してきていた。
「顔見知りを集めて『物資の取り合いを何とかしよう』と相談しました。全体を7つの班に分けて、役割分担を決めたのです」
1班は物資管理、2班はフロアの掃除、3・4班はトイレの掃除...という具合に、一定期間で交代する運用にした。これで、当初の混乱はなくなった。
4月5日には2次避難所が開設され、佐藤さんは二本松市内のホテルに移動。ここでも7班に分けて、避難者同士が自分の役割を持ち、協力して日常生活を支え合った。