日本航空(JAL)が2024年2月2日、国際線就航70周年式典を羽田空港で開いた。ちょうど70年前の1954年2月2日に、JALは羽田-ホノルル-サンフランシスコ便を開設。戦後、日本の航空会社が初めて開設した国際線定期便路線だ。
JALが設立されたのが敗戦から6年後の1951年8月で、10月には国内線の運航を始めている。9月にはサンフランシスコ講和条約が署名されている。国際線開設は、それから2年ほど後の出来事だ。式典が行われた搭乗ゲート前には、就航時の時刻表やパンフレット、歴代制服などを展示。乗客は当時の資料に見入っていた。
36席のDC-6B型機に21人が搭乗、有償旅客は5人
70年前の初便は、エンジンが4つついた、プロペラ機のDC-6B型機(JA6201)で運航。貨物機のDC-6A型機を米国から入手して旅客機に改造し、「City of Tokyo」の愛称がつけられた。今のファーストクラスにあたる「デラックスクラス」のみ36席を備え、21人が搭乗。ただ、そのうち運賃を払って乗った有償旅客は5人だった。乗客とは別に運航乗務員9人(基本編成は機長、副操縦士、航空士、航空機関士の4人)、客室乗務員(CA)5人が乗った。
当時の時刻表によると、就航時は週2便で運航。21時30分に羽田を出発し、太平洋の環礁・ウェーク島(ウェーキ島)とハワイ・ホノルルを経由して翌日11時30分にサンフランシスコに到着するスケジュールで、31時間かかった。片道運賃はホノルルまで18万5400円(515ドル)、サンフランシスコまで23万4000円(650ドル)。当時の大卒平均初任給は8700円だった。
「ウェーキ島ご案内」のパンフレットも展示されていた。「旧日本軍慰霊塔」、米軍の攻撃を受けて任意座礁した「日本郵船『スワ丸』」といったスポットが確認できる。「ターミナルビル説明図」にあるのは「航空機出発点」「トランスオーシャン航空会社」「待合室」「売店」「手洗所」「気象台」のみ。かなり簡素な構造だったようだ。