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「大鵬親方がお客様に頭を下げて...」病気で引退、元大相撲力士のセカンドキャリアは料理人 忘れられない恩師の思い出

   身長194センチの平井忠峰氏(59)は厨房の中でひときわ目立つ。新潟県新潟市に店舗を構えるちゃんこ料理店「ちゃんこ大翔龍」のオーナーで自ら包丁を握る平井氏は、大翔龍のしこ名で幕下まで上がった元大相撲力士だ。35歳の時に生まれ故郷の新潟に戻り、ちゃんこ料理店を始めた平井氏。現役引退後、なぜ料理人の道に進んだのか。平井氏はJ-CASTニュースの取材に、自身が歩んできたセカンドキャリアを振り返った。※インタビューは2023年12月に実施。

  • 新潟市内にちゃんこ料理店を構える平井氏
    新潟市内にちゃんこ料理店を構える平井氏
  • 新潟市内にちゃんこ料理店を構える平井氏
  • 現役時代の平井氏
  • 厨房で料理をする平井氏
  • 厨房でネタを仕込む平井氏
  • ちゃんこ料理店「大翔龍」
  • 「大翔龍」の店内

「自分は十両に上がるものだと思っていました」

   平井氏は子供のころから体が大きく、小学生の時はバスケットボールに打ち込み、中学校では柔道で活躍した。中学3年生になると身長は190センチを超えたという。当初、高校に進学するつもりだったが、父親の幼馴染が大鵬部屋の後援会に入っていた縁で角界入りを勧められ、中学卒業後に大鵬部屋に入門した。

   大鵬部屋は昭和の大横綱・大鵬が創設した部屋である。32回の幕内優勝をはじめ数々の記録を打ち立てた大鵬は1971年5月場所で引退し、一代年寄「大鵬」を襲名。その後、二所ノ関部屋から独立して自身の部屋を創設した。平井氏は大鵬部屋の新弟子として80年3月場所で初土俵を踏んだ。

   入門当初、75キロから80キロの間だった体重を1年半かけて100キロ台に増やした。ようやく幕下が見えてきた時、稽古中に頸椎を骨折し、右半身に力が入らなくなった。それまで60キロあった右手の握力が20キロまで激減。1度は相撲を諦めかけたが、親方や兄弟子らの励ましもあり、続けることができたという。

   東幕下3枚目で迎えた92年11月場所。夢の十両の座は手の届くところにあった。勝ち越せば(4勝以上)十両昇進の可能性があったが、3勝2敗から2連敗を喫し3勝4敗で場所を終えた。翌93年の1月場所は西幕下7枚目で仕切り直しとなったが、再び3勝4敗で負け越した。

   平井氏は「自分では幕下3枚目まで上がり十両に上がるものだと思っていました。3勝まできて最後勝てなかったのは自分の気持ちの弱さだと思います。意識しすぎるとダメですね。3勝2敗から2連敗ということは気持ちが弱かったのでしょうね。何か足りなかったと思います」とし、当時の心境をこう振り返った。

「当時、大鵬部屋はかなりきつい稽古をしていました。それが身になっているかどうかは本場所に出る。私の場合、そこまでではなかったのでしょうね。今だから言えますが気持ちの入っていない稽古はいくらやっても一緒です。やらされている感があると伸びない。自分で『やるんだ、やるんだ』という気持ちにならないと。十両に上がる勝負の場所は『やらなきゃ』という気持ちでやっていましたけども、それでは通用しませんでした。気持ちばかり前に行ってしまって」

「15年間、関取に向けて厳しい稽古に耐え、これらという時でしたので」

   その後、幕下に踏みとどまり再び十両を目指すも94年5月場所を最後に現役引退。千秋楽の翌日が30歳の誕生日だった。

   引退の引き金となったのは「肺塞栓症」という病気だった。93年の7月場所直後に体調を崩し、場所を終えるとすぐに帰京。都内の病院で検査したところ「肺塞栓症」と診断され、今後胸部に激しい衝撃を与えるような運動を禁じられたという。土俵の上で真正面から体をぶつけ合う力士にとって事実上の「引退勧告」だった。

   平井氏の夫人・あゆみさんは、平井氏が医師から「肺塞栓症」を告げられた日のことをよく覚えているという。

   平井氏は深夜の待合室で号泣した。194センチの大きな背中を丸めて泣いていた。その姿を後ろから見ていたあゆみさんは声をかけることができなかったという。「15年間、関取に向けて厳しい稽古に耐え、これからという時でしたので」

   夢半ばで土俵生活に別れを告げた平井氏が料理人の道に進んだのは、大鵬親方のあるひと言がひとつのきっかけになったという。

「現役時代、部屋のちゃんこ当番の時、親方に怒られることがしょっちゅうでした。親方は食にこだわりを持っていた方でしたから。あれは確か自分が作った魚の煮つけだったと思います。それを親方に出したところ、親方は私が作ったと思っていなかったみたいで『これ美味いじゃないか。誰が作ったんだ』と。他の力士が『平井ですよ』と言ったら親方は『あいつにこんなものが作れるはずないだろう』と言っていましたが、親方に料理で初めて褒められたのがうれしくて。そこからですね、将来料理の道に進もうと考えたのは。料理で褒められてうれしいというのが私の根幹にあります」

   平井氏が料理人として第2の人生を考えていた一方で、大鵬親方は平井氏に世話人として部屋に残ってもらいたいという気持ちがあったようだ。当時、平井氏は大鵬親方の口から直接そのような思いを聞いたことがなく、部屋を去ってから人づてに聞いたという。「後から聞いたんですけど大鵬親方は私を世話人として残したかったみたいです。もし部屋に残っていたら今の私はありません」と語った。

「お客様にお断りして座りながら料理してもいいじゃない」

   引退直後に和歌山県にある割烹料理店で修業を積み、大相撲の同期生の紹介で大阪のちゃんこ料理店を任された。店長として店を切り盛りし1年が過ぎたころ、またしても体調を崩して入院した。右足から大量に出血し病院に運び込まれ、検査の結果「下肢静脈瘤」と診断された。手術を受けいったんは落ち着いたが、症状が好転することなく長時間の立ち仕事が難しくなったことから店を諦め地元新潟に戻った。

   新潟でしばらくは父親の知人が経営する下水道関係の仕事に就いたが、料理人の道を諦められなかった。「もう1度料理人として修行をしたい」との強い思いから知人に紹介してもらい、寿司屋で修業することになった。ところが修行2年目に再び「下肢静脈瘤」に見舞われ大出血。医師から5時間以上立つことを禁じられ「これ以上、店に迷惑をかけられない」との思いから店を辞めたという。

   調理場に長時間立つことができない。それでも料理人の夢は諦められない。そんな平井氏にあゆみさんはこう言ったという。

「雇われの身だと自由がきかないし長時間拘束されるから、それだったら自分たちで店をやりましょう。人を雇ってもいいし、お客様にお断りして座りながら料理してもいいじゃない。料理人の道が諦められないのならば独立しましょう」

   当時、お金に余裕はなかった。開店資金はほぼ借金でまかなったという。平井氏は当時35歳。あゆみさんは「主人は相撲が志半ばでしたので、なんとか料理人として大成したいという思いがあったと思います」とし、「当時は2人とも若かったですから怖いもの知らずだったのかもしれません」と笑顔で振り返った。

   こうして周囲の支えもあり店を構えて23年が経った。平井氏は今でも忘れられない思い出があるという。「大鵬親方が1度だけ店に来てくれたことがあったんですよ」と切り出し、大鵬親方との思い出を語った。

「大鵬部屋に入って本当に良かったなと思いました」

「その日、新潟市で講演の仕事があって、講演が終わってから私の店に来て下さったんですよ。これはいまだに忘れられないんですけども、大鵬親方がカウンターと全てのテーブルを回ってくれたんですよ。『うちの弟子がお世話になっております。これからも大翔龍をお願いします』と頭を下げて、お客様ひとりひとりに挨拶をしてくださいました。この時、大鵬部屋に入って本当に良かったなと思いました」

   大鵬部屋は大鵬親方の定年退職に先立ち、大鵬親方の婿養子だった大嶽親方(元関脇貴闘力)が04年1月に部屋を継承し、大嶽部屋に名称が変更された。05年に65歳で日本相撲協会を定年退職し、13年1月に72歳で亡くなった。平井氏は大鵬部屋の名を残したいとの思いから店のメニューに「大鵬コース」を加え、今では看板メニューになっているという。

   マゲを落としてから29年間、第2の人生を料理人として生きてきた平井氏は「この商売をやっていて1番良かったと思うのはお客様に喜んでいただいていることです。お客様に『おいしかったよ』と言ってもらえるためにどういう事をしたらよいのかを考える毎日です。今では相撲を辞めて自分がやってきたことが間違っていなかったと思えるようになりました。今ようやく認められてきたかなと感じています。まだこれが完成系かどうか分かりません。相撲でいえばようやく十両に上がれたという感じです」としみじみ語った。