上司の言葉がけひとつで、モチベーションが高まった経験はありませんか?
会社の中で実際に起きた困ったエピソード、感動的なエピソードを取り上げ、人材育成支援企業代表の前川孝雄さんが上司としてどうふるまうべきか――「上司力」を発揮するヒントを解説していきます。
前川さんは今回のエピソードを踏まえ、いまの時代、本質的な人材育成という観点で考えた場合、上司として若手社員を「囲い込む」よりも、「キャリア自律」に向けた支援に目を向けることで「『選ばれる会社』になる可能性が出てくる」といいます――。
優秀層ほど安定企業に入社すれば安泰、とは考えていない
日本企業の年功序列・終身雇用が終焉に向かい、人材の流動化が進む現在。アフターコロナの経済活動再開による企業の採用意欲の高まりもあいまって、多くの企業が若手人材の採用難と早期離職に頭を悩ませています。
当の若者の意識は、もはや「就社」ではなく「就職」。
優秀層ほど安定企業に入社すれば安泰とは考えていません。常に自分の市場価値を意識しながらスキルアップを目指す、キャリア自律意識が強まっています。こうした若手世代をいかに育てるか。
今回取り上げるのは、若手部下に寄り添い、育成とキャリア支援に奮闘した上司のエピソードです。
あるベンチャー企業に、社会人3年目の女性社員Hさんが転職してきました。彼女は大手金融機関に新卒入社し、安定した環境で働いていました。しかし、仕事を通じて関心を抱いた他分野への思いが募り、2年目から転職活動を開始。ちょうど採用募集中の同社に、入社を果たしたのです。
Hさんが着任した部署の部長Tさんは、初期面談でHさんのキャリア希望を丁寧に聴き取りました。Hさんは、人材×コンテンツ制作の領域でスキルアップしたいとのこと。
ただ、前職での1年間に後輩社員のOJTリーダーを務めた経験だけで、人材領域の専門の知識やスキルはありません。それでも、Hさんの言葉からは、新たな仕事への意欲と熱意が十分に伝わってきました。
そこで、T部長もHさんを早く一人前に育てようと、研修教材や社内報を制作するチームに配属。面倒見のよい担当課長Sさんに、Hさんの育成計画づくりとOJTを依頼。T部長自身も、Hさんと定期的に報告・相談メールを交わし、要所でチームの打ち合わせに入るなど、成長を見守り続けました。
Hさんは、配属チームで同社が企画開催する研修教材作りや、紙媒体の社内報制作などを担当。当初はS課長から何度もダメ出しを受け、試行錯誤と苦心の連続...。
それでもあこがれの仕事に就けたモチベーションと持ち前の粘り強い仕事ぶりで、次第に腕前を上げていきました。着任1年目を終える頃には、社内他部署からも頼りにされる存在に。納品先のクライアント企業からも、高い評価を受けるまで育っていきました。
eラーニング制作の新プロジェクト担当に抜擢!
その後、T部長とS課長は、同社初のeラーニング教材の開発を決めました。そして、新規事業として、会社としても大型予算をかけたこの一大プロジェクトの主担当者にHさんを抜擢したのです。Hさんのデジタル・コンテンツ制作のスキルアップにも絶好のチャンスという考えもあってのことでした。
Hさんにはさっそく、事業計画と各方面への稟議申請書類の作成が求められました。無事、難関の申請が通ると、限られた期間での制作作業に忙殺される日々が待っていました。
たとえば、教材に盛り込むデータと事例収集のための、市場調査の実施と結果分析。教材シナリオの作成では、S課長からの厳しいチェックを受け、何度も書き直しました。
また、内容の法務面での適正化のため、社外の弁護士との監修打ち合わせ。次いで動画制作会社との打ち合わせでは、幾度にも渡る絵コンテ修正等々...。Hさんは、一時は夜も眠れぬほど自分を追い込みながらも、S課長やT部長のサポートのもと、全力投球で取り組みました。
こうして、Hさんはeラーニング制作の全工程を学びながら、見事に同社初のデジタル教材を完成させたのです。その根気強さと、仕上りコンテンツのクオリティーの高さは、ベテランの先輩たちも目を見張るほど。Hさんの社内評価はさらに高まりました。
「私、転職するか否かで悩んでいるんです」
T部長は、Hさんの成長ぶりを心から喜びました。ただ同時に、ある課題感を持っていました。
Hさんがさらに力を発揮しスキルアップを図るには、リソースが限られているベンチャーでは限界があるということです。
自社はeラーニング専門企業でもないため、デジタル教材の需要は限定的。一方でHさんを教材コンテンツづくりのプロに育てていくには、デジタル領域での経験をもっと積ませたい。
そこでTさんは、Hさんを同業他社に研修出向に出す案や、他社連携のプロジェクトを興せないかなど、思案を重ねるものの、妙案はありません。
やがて、期末評価とキャリア相談の時期を迎え、T部長とHさんとの面談が巡ってきました。Tさんは、Hさんのeラーニング・プロジェクトでの成果を評価し、振り返りの対話をしたうえで、Hさんの来期に話を進めました。
すると、その時です。
「Tさん、実は私...転職する否かで、悩んでいるんです...」
Tさんは、はっとして、一瞬息をのみました。
Hさんは少し緊張した真剣な面持ちでしたが、やがて涙顔になり下を向いてしまいました。しばらく沈黙の時間の後に、Tさんが語りかけました。
「そうだったんだね...よく話してくれたね。実は、僕もHさんの今後のキャリアを相談したいと思っていたんだ。どうすればHさんがデジタル領域での経験知をさらに磨けるか。知っての通りのうちの会社では難しいとも考えていた」
「そうなんですか...」とHさんは顔をあげました。Tさんは続けます。
「もしも社外でよい道が見つかるなら、遠慮せず進むのが一番だ。Hさんなら、自分の将来をしっかり考えられるだろう」
「次の職場で頑張ります!」
Hさん「実は...デジタル領域で幅広く事業展開している大手のA社から、内定をもらえたんです。でも、TさんやSさんに、これまでとてもよくしていただき、会社を賭けた大事な仕事を任せてもらい、すっかり育てて頂いて。それで...というのは、あまりに身勝手なんじゃないかと悩んでしまって...」
Tさん「Hさんらしいね。でも、そんな遠慮はいらないよ。A社なら、デジタル・コンテンツ制作の場数を経験するのに最適じゃないか。ここで育ったHさんの実績が認められた証だから、むしろ嬉しいよ。思う存分新しい仕事にチャレンジしておいで。困ったらいつでも相談に来ればいい。慣れたら兼業や副業で協業することもできるかもしれないし、経験を積んでまた戻りたければ、戻ってくればいい」
Hさん「ありがとうございます! Tさんに相談してよかったです。では次の職場で頑張ってみます」
こうして、Hさんは転職を決め、しっかり社内引継ぎを済ませ、無事巣立っていきました。T部長は、手塩にかけて育てたHさんの卒業には一抹の寂しさを感じたものの、彼女の今後の活躍と成長を思うと、これでよかったと清々しい気持ちでもあったのです。
部下を囲い込むより、「キャリア自律」に向けた支援を
本エピソードは実話ながら、賛否両論があるかもしれません。
育てた若手が他社に獲られるのを応援するなんて、「きれいごと」で自社ではあり得ないと感じる人もいるでしょう。
いまや多くの企業が若者の早期離職に悩むなか、何とか社内に引き止め定着を促そうと、賃金アップや年功にとらわれない役職制導入など、対応に躍起です。しかし、これからの時代、若手を無理に社内に囲い込もうとすれば、かえって優秀な人材ほど逃げしまうのではないでしょうか。
冒頭でもふれたとおり、真面目な若者ほど、終身雇用が崩れた時代に、常に自身の市場価値を見定めながらキャリアアップを求め、転職をも視野に入れながら働いています。就職先を選ぶ最も大事な基準は、自らが成長できる会社であること。就職と同時に転職サイトに登録することも普通です。
したがって、これからの上司は、若者本人のキャリア自律への希望と向き合いながら、社内外で通用するプロフェッショナル人材としていかに育て上げ、活躍の場をつくるか。そうした俯瞰的な視点での関わりが大事です。
社内でその環境がつくれればベスト。しかしエピソードのように、残念ながらそれが叶わず、他社からのオファーが本人にとって望ましいものなら、気持ちよく送り出すことも視野に入れておくべきでしょう。
人材の流動化を前提に、アルムナイネットワーク(退職者の同窓会組織)を導入し、活用する企業も出始めました。また、副業、兼業が促進されるなか、複数の職場・仕事を兼務する働き方も増えていくでしょう。力のある社員の独立起業を支援し、対等な業務委託契約を結び直す企業も登場しています。
これからの企業は、社員を囲い込むのではなく、キャリア自律を応援すること。結果、そのことで優秀な人材にとって、自分にあった働き方と成長が望める「選ばれる会社」になる可能性が出てくるのです。
(紹介するエピソードは実際にあったものですが、プライバシー等に配慮し一部変更を加えています。)
【筆者プロフィール】
前川 孝雄(まえかわ・たかお):株式会社FeelWorks代表取締役。青山学院大学兼任講師、情報経営イノベーション専門職大学客員教授。人を育て活かす「上司力」提唱の第一人者。リクルートを経て、2008年に管理職・リーダー育成・研修企業のFeelWorks創業。「日本の上司を元気にする」をビジョンに掲げ、「上司力研修」「50代からの働き方研修」「新入社員のはたらく心得」などで、400社以上を支援。近著に、『部下を活かすマネジメント「新作法」』(労務行政、2023年9月)。