2023年11月15日に亡くなった池田大作氏は、創価学会を発展させ、海外にも広げた最大の立役者だった。
華々しい学歴とは縁もなく、貧しかった少年時代――徒手空拳、社会の底辺から戦後の人生をスタートさせた池田氏は、なぜ組織の巨大化に成功し、神格化されるまでになったのか。
戦争ですべてがめちゃくちゃに
生家は東京湾の漁師。今の羽田空港の近く、海苔づくりが家業だった。父親が病気がちで家計は苦しく、新聞配達をしながら高等小学校を卒業、地元で大手鉄工所の工員になる。モーターの音が鳴り響き、旋盤で鉄棒を切断し、ねじをつくる重労働だった。最終学歴は富士短期大学卒だが、実際には昼間は油まみれ、汗まみれでくたくたになるまで働き、夜学で学ぶ勤労学生。田中角栄元首相の少年時代と同じように苦学の日々が続いた。
当時を振り返り、「勉強できる環境にはなかったが、本は読むように努力した。人に負けないほど読んだ」「近くの墓地に行って、終日、読んでいることもあった。詩が好きで、気に入った個所は何ページもまるまる暗記した」(『私の履歴書』、聖教新聞社)。
17歳で終戦を迎え、一切が信じられなくなる。あちこちの読書会に参加して人生の道しるべを探した。47(昭和22)年8月、「生命哲学について」の読書会に来ないかと友人に誘われ、そこで講師を務めていた戸田城聖氏(のちの学会第2代会長)と出会う。最初はベルグソンの「生の哲学」の読書会かと思ったという。
「正しい人生とは」「本当の愛国者とは」「天皇をどう考えるか」という3つの質問をしたところ、即座に答えが返ってきた。直感的に、「この人についていこう」と思ったという。戸田氏が戦前、治安維持法や不敬罪で投獄されていたというのも、決定的な要素だった。
池田氏の兄4人は次々と召集され、長兄は戦死。実家は空襲で丸焼けに。持ち出せたのは「コウモリ傘一本と、ひな人形の入った長持1箱」だけ。「戦争に反対して獄に入ったか否か」が人間を信用するかどうかの大きな尺度になっていた。「戦争の無残さは、津波のようにわが家を襲い、すべてをめちゃくちゃにした」「私の反戦平和への心の軌跡をたどるとき、こうした原体験から発していることは明らかである」(『履歴書』)。
ほどなく戸田氏が経営していた出版社など関係会社で働くようになる。少年雑誌の編集をしたこともあった。偉人の伝記などは自分で書いた。金融業にも関わった。この時期、宗教家で実業家でもあった戸田氏から直伝で、仏法はもとより、礼儀作法、情勢分析、組織運営などを習ったことが「無形の財産」になったと述懐している。
二律背反が一人の人間の中に同居
入会したころ学会員は、全国で数百人に過ぎなかった。それが戸田時代の後半から増え始め、3代目の池田会長体制になって爆発する。草創期から池田氏と行動を共にし、のちに批判の急先鋒となった藤原行正氏(元東京都議)も、「学会を今日の巨大組織に仕上げた功績は池田三代会長のもの。その事実は誰も否定はできない」(『池田大作の素顔』、講談社)と認める。
なぜ急成長させることができたのか。田原総一朗氏は『戦後五十年の生き証人が語る』(中央公論社、96年刊)で池田氏にインタビューし、秘密を探ろうとする。しかし池田氏は、「仏法自体に力がある。それが皆にわかるような指導をした」という程度のことしか語らなかった。
宗教学者の島田裕巳氏によれば、学会の急拡大は、戦後の高度成長期に零細企業で働く未組織労働者層など「都市下層」の庶民を取り込むことに成功したことが大きい。主に地方から都会に出てきた人たちを強力に勧誘し、地域に張り巡らせた強力な相互扶助ネットワークで彼らを支えた。会員にとって学会は、仲間や相談相手がいて実利もある「新しい村」「大きな村」になったと分析する(『創価学会』、新潮新書)。
池田氏は、めったに学会外のメディアに登場しないこともあって実像はベールに包まれ、評価は立場によって大きく異なる。内部では神格化された指導者、週刊誌などでは、離反者の声などをもとに「独裁者」として批判的に描かれることが多かった。どちらが正しいのか。
島田氏は、実際に池田氏にインタビューした内藤国夫、児玉隆也など著名ジャーナリストが、「庶民的で飾らない指導者」などと、たいがい好印象を持ったことを紹介する。離反者の多くは、池田氏を「学会を私物化」「権力の亡者」などと激しく糾弾するが、公明党の元委員長で、のちに学会と反目、訴訟で対決した矢野絢也氏は複雑な思いをつづっている。
矢野氏は長い政治歴の中で、佐藤栄作氏や田中角栄氏など歴代の首相や、松下幸之助氏ら政財界の大物・重鎮とも深く関わった。その誰と比較しても、「善悪、正邪両方の意味で、池田大作氏に匹敵する人物は一人もいなかった」「生涯でただ一人、『この人はすごい』と心底感じたのは池田氏だけ」「退会した今もその評価は変わらない」と語る。その「すごさ」が学会内部では「怖さ」となり、恐怖政治を生み出す源泉にもなったと分析している。(『私が愛した池田大作――「虚飾の王」との五〇年』、講談社、09年刊)。
類まれなるカリスマ性。天才的なオルガナイザー。演説の名人で、人心掌握術の達人。コンプレックスの塊で猜疑心が強く、執念深さは想像を絶し、自分に敵対する者への攻撃性はすさまじい。一方で、ざっくばらんで愛嬌もある。こうした矛盾、二律背反が一人の人間の中に同居しているのが池田大作という人間、と評している。
「健康不安」がつきまとう
池田氏は10代半ばで結核を患い、長く血痰や咳、寝汗と微熱の日々が続いた。北向きの4畳半のアパートの一室で、タクアンだけの夕食をとり、靴下のほころびを繕う。寝床に就いたが、熱にうなされ、眼が覚める――これが22、3歳のころの自分の青春だった、と回想している。
その後も頻繁に、「背中に焼けたる鉄板を一枚入れたるがごとし」という激痛に襲われた。会長時代も結核がぶりかえし、40度前後の高熱が何か月も続いたことがあった。79年に、学会の名誉会長に退いたときも、理由の一つに「健康問題」を挙げていた。
でっぷりと太った姿で知られる池田氏だが、「30歳まで生きられないかも」と思っていた時期もあったという。香峯子夫人も著書『香峯子抄』(主婦の友社、05年刊)の中で、たびたび池田氏の体調管理に言及、「私は、主人の健康を守るために生まれてきたようなもの」と記していた。