兵庫県芦屋市の髙島崚輔市長が灘高校在学時に打ち込んだことのひとつが、競技ディベートだ。2、3年では「全国中学・高校ディベート選手権」(ディベート甲子園)の全国大会に出場、2年連続で予選リーグを勝ち抜いた。
ディベートは「意思決定の訓練」の一環としても注目され、髙島さんはディベート的な考え方がOS(基本ソフト)として活きていると話す。連載第2回では、出場時の思い出や、ディベートの経験が市長の仕事で役立ったエピソードについて聞いた。(聞き手・構成:J-CASTニュース編集部 工藤博司)
ディベートで「短期間でまとめて分かりやすく話すという能力は、大いに培われた」
―― 市長は高校生の頃、生徒会などさまざまな活動に取り組んでいました。日本語の競技ディベートの全国大会「全国中学・高校ディベート選手権」(ディベート甲子園)にも出場していますね。当時の思い出や、ディベートで培ったスキルで市長の業務に生かされていることがあったら教えてください。実は自分は記者以外に、休日にはボランティアでディベート甲子園の「中の人」をしているので、選手時代の写真を発掘してきました。14年の全国大会です(ここで写真を見せる)。高校の部の論題(議論のテーマ)は「日本は外国人労働者の受け入れを拡大すべきである。是か非か」。この年、母校の灘高校は決勝トーナメント1回戦で創価高校(東京)に敗れています。会場は東洋大学だったか立教大学だったか...。
髙島: 東洋大の白山キャンパスですね。懐かしいなあ...! これ、高3なのに出たんですよね。高2でもトーナメント1回戦で負けて、「さすがにこれじゃあな」とか「高3は出られへんな」とか、いろいろ思いましたが、ちょっと何かやりたくなっちゃったんですよね。
―― ディベートは高2で始めたんですか?それは先輩がやっていたから、とかですか?
髙島: 元々は英語でやっていたんです。高1で英語ディベートを始めて、「全国高校生英語ディベート大会」で5位に入賞しました。そこで日本語でもやってみようかな、と思って、高2で始めました。実は、私の1つ上の代が全国大会で準優勝しています。死刑論題のときです(編注:灘高校が準優勝した12年の論題は「日本は死刑制度を廃止すべきである。是か非か」)。高2が首相公選制(「日本は首相公選制を導入すべきである。是か非か」)で、やっぱりディベートってすごく面白いなと思って、高2の時は生徒会とディベートをずっとやっていました。
リベンジしたくなって高3も続けたわけですが、結局(灘を破った)創価が優勝したので、実質的には準優勝くらいかなと思うんですけど...(苦笑)。2反(編注:第2反駁(はんばく)。試合の最後にスピーチする役割)だったので、サマリー(試合で出た議論の振り返り)をやっていました。
―― それは全体の議論をみないといけませんね。
髙島: そうなんです。やはりそこで、短時間でまとめて分かりやすく話すという能力は、大いに培われたと思います。議会で言われたことに対していかにきちんと答えるか、というところについては、ディベートのトレーニングがなかったら厳しかったと思います。
前任の伊藤舞市長(19~23年)も、2つ前の山中健市長(03~19年)も市議会議員出身なので、その経験がない市長は、さらに一つ前の北村春江市長(91~03年)以来です。北村市長は弁護士ですし、ディベート経験がなかったら市長の仕事を満足に進めるのは相当厳しかったと思います。いかに言われたことに対してちゃんと返す(反応する)か、伸ばす(重要なポイントを改めて強調する)べきところは伸ばすか、みたいなことはディベートで培われたと思います。
―― 国会では後ろから紙が差し込まれますが、市議会ではそういうことはないわけですね。
髙島: 全くなくて、とにかく「はい、市長!」みたいな感じですね(苦笑)。もちろん全部市長が答えるわけではなく、部長や副市長も含めて答えるのですが、読み上げて答えることはほぼありません。「それではどうぞ」みたいな感じです。
「基本的な頭の使い方のOSを持っていることは、大いに活きている」
―― 事前にブリーフ(反論のための論点を資料付きでまとめたメモ)を作れるわけでもないですね。
髙島: 予測できる部分はありますし準備はしますが、実際具体的にどのように聞かれるかはやっぱり分からないじゃないですか。質問通告はあるので、テーマは分かります。「こういうことを聞くんだな」ぐらいは当然分かるんですが...。
―― 京都大学客員准教授などを歴任したエンジェル投資家の瀧本哲史さん=2019年に47歳で死去=もディベート甲子園の運営に携わっていました。著書などでは、正解がないことに対する仮説検証を繰り返すという点で、意思決定の訓練としてのディベート教育の有用性を説いていました。この「意思決定の訓練」が、市長としての仕事に役立った面はありますか。
髙島: ありますね。私はディベート以外に模擬国連にも参加していたのですが、交渉ではベストケースシナリオとワーストケースシナリオを考えますよね。それを考えた上でどうする、という議論をするようになった経験は生きています。ディベートではメリットとデメリットをいかにして比較するかが重要です。こういった基本的な頭の使い方のOS(基本ソフト)を持っていることは、大いに活きていると思います。
―― メリットとデメリットの比較で言えば、一部では「100か0か」のような議論をする向きがある一方で、最悪「51対49」に持ち込めれば試合には勝てるわけで、この辺りの考え方も意思決定のあり方に通じるところがあるかもしれません。
髙島: 市長が最終的に意思決定することで「100-0」の案件なんて、ほぼないわけじゃないですか。「100-0」は「やってくれよ」という話ですから。実際には「60-40」とか「51-49」みたいな話もあるわけです。そのときに、まさにディベートでいうところの、「どういう価値観に基づいて(審判に)投票してもらうか」というところが重要です。2反はそういうポジションだったので。その意味でもディベートは生きていると思います。
―― 意思決定のあり方について、もう少しうかがいます。23年9月には、東南アジア諸国連合(ASEAN)の若者向け会議「ASEAN Youth Agenda Indonesia 2023」でリモートでスピーチし、その中で「The art of persuasion through dialogue」(対話を通じた説得)に触れていました。
髙島: どういう形でリーダーとして意思決定しているか、といった話をしました。話したことは(1)いかにエビデンス、科学的な根拠に基づいて議論するか(2)意思決定をどのように伝えるか。意思決定は伝えて初めて意思決定たりうる――という2点です。特に前者は、近ごろ注目されているEBPM(エビデンスに基づいた政策立案)もそうですし、果断な対応をする際に、その根拠となるものを持っていることが、こちらとしても説明しやすさにつながる、といった話をしました。
ちょうど(原発処理水の)海洋放出のタイミングで、ASEANの皆さんの関心が高いこともあり、そこにも触れました。エビデンスでガチガチに固めていることによる意思決定の精度はもちろん大事ですが、同時に「どういうふうに伝えるか」、ここがやっぱり肝だと思うんです。
ハーバード大に留学していたときも、似た経験をしました。2020年3月、コロナ禍の時です。火曜日の朝8時、学長から一斉メールが来たんですね。「5日後に寮を閉めるから全員家に帰れ」って。「え??」ってなるじゃないですか。当時、(ハーバードがある)マサチューセッツ州のコロナ患者数は2桁台で、ボストンにいたっては20人ぐらいでした。だから別に普通に生活していたのですが、そのタイミングで学長はリモートに全部移行することを決めて、5日間でやりきった。
いろいろ話を聞くと、最初の意思決定の時点で、公衆衛生の専門家の話を聞いて「これはまずい」となったそうなんです。しかも寮生活なので、それこそクラスターになって一気に感染が拡大する可能性があるので、早めに寮を閉めることを決めた。まさにこれは科学的な決断ですが、それでもその決断を下すのは難しい。
4年生にとってみれば、その瞬間に学期が終わると同時に学校生活が終わることを意味します。卒業式もなくなってしまいました。みんな「え?」と困惑するのは当然です。そのときに寮のトップの先生が食堂に降りてきて、1人1人の話をずっと聞き続けたんですよね。それをすることによって、徐々に学生も「しょうがないか」と納得していった、という経緯があります。
そういう対話に基づいた意思疎通や、納得を得るということが大事だ、つまり、「リーダーが決める内容も大事だが、そこをどう伝えるかが極めて重要」だと感じた、といった話をしました。
―― 「ファクトで殴る」「エビデンスで殴る」という言い方があります。実際の意思決定の場面では、それだけではなく、時間をかけて説明することも必要なプロセスですね。
髙島: ディベートの試合であれば審判が聞いてくれますが、実際はそうはいかないですからね。意思決定と説明、両方が必要ですね。役所の中だと、これはまだ公開しにくいんです......ということも多く、丁寧な説明に苦慮しているところもあるのですが。
(インタビュー第3回に続く。10月30日掲載予定です)
髙島崚輔さん プロフィール
たかしま・りょうすけ 芦屋市長。1997年生まれ、大阪府箕面市出身。灘中学・高校卒業後、2015年に東京大学に入学し、後に中退。同年9月ハーバード大学に入学。16年にNPO法人「グローバルな学びのコミュニティ・留学フェローシップ」の理事長に就任し、NPO活動強化のために孫正義育英財団の支援を得て3年間休学した。在学中の19年に芦屋市でインターンを経験した。22年にハーバード大卒(環境工学専攻・環境科学・公共政策副専攻)。23年4月の芦屋市長選に出馬し、史上最年少で初当選。同5月に就任。