山田千紘さん(31)は2023年7月24日で、右手と両足を失った電車事故から11年を迎えた。当時20歳。毎日「死にたい」と泣いていた。だが今では、「生きてて良かった」と常日頃思う。
当時入院した病院で講演する機会があり、資料作りのため救急搬送された当時の写真を見返した山田さん。「助かったのは本当に奇跡だった」と改めて思い、「生きている限り前を向いて歩き続けたい」という意志を強くした。節目の時期に抱いた思いを、山田さんが語った。
【連載】山田千紘の「プラスを数える」~手足3本失った僕が気づいたこと~ (この連載では、身体障害の当事者である山田千紘さんが社会や日常の中で気づいたことなどを、自身の視点から述べています。)
「一番印象に残っている患者です」
電車にひかれた事故直後に搬送された横浜の病院で、講演させてもらう機会が先日ありました。去年に続いて2年連続で招いてもらいました。
質疑応答で、11年前からいる看護師の人が話してくれました。「一番印象に残っている患者です。山田君が今私たちの前で話してくれるくらい成長したことが本当に嬉しくて、質問ではないんですが、感動しました」と言われました。泣いていました。20歳で手足を3本失った患者には、出会った経験がなかったそうです。
僕も泣きそうでした。「こちらこそありがとうございます」と伝えました。「覚えているか分からないけど」と言われたけど、もちろん僕も覚えている看護師でした。
入院当初から、僕は外面が良かったと思います。看護師にも弱いところを見せたくなくて、会ったら笑うようにしていました。「明るくいなきゃ」と人の目を気にしていたのかもしれません。その看護師は当時「なんでこんなに笑顔なんだろう」と逆に心配だったそうです。
昼間は笑っていたけど、ベッドで夜1人になると、僕は泣きながら「死にたい」と思っていました。眠れなくて、暗い窓の外を見ていると気持ちもどんどん暗くなりました。自分の姿を見たくありませんでした。講演でそんな話もしました。
「あの時何もしてあげられなくてごめん」と言われました。「そんなことないです」と言いました。十分すぎるほど寄り添ってもらいました。看護師の皆さんをはじめ、病院スタッフがいつも近くにいて、日々真摯にコミュニケーションを取ってくれたおかげで、どん底だった僕は本当の明るさを取り戻せました。
病院スタッフだけではありません。家族や友達、いろんな人が気にかけてくれ、自分は1人じゃないと気付けました。失ったものは大きいけど、周りの人たちや自分に残されたものを大事にすればいい。そう思ったら前向きになれました。手足を3本失って2か月が経ち、退院する時には自分らしさを取り戻していて、悲観的な気持ちはもうありませんでした。
「生きている限り前を向いて歩み続けたい」
講演の資料を作るにあたり、入院した病院ということもあって、救急搬送された事故直後の写真を久しぶりに見返しました。見るも無残な手足でした。この写真を見ると改めて「助かったのは本当に奇跡だったんだ」と思います。同時に、「生きている限り前を向いて歩み続けたい」という意志も強くなりました。
退院後、この体でいろんなことにチャレンジしています。1人暮らしや、就職して働くこともそう。この1年でも海に潜ったり、山に登ったりしてきました。今度は富士山に挑戦します。
「何でそんなに頑張るの?」と聞かれることがあります。根幹にあるのは、20歳のあの日終わっていたかもしれない人生を、繋ぎとめてくれた人がたくさんいるから。そして、僕の姿を見て元気になってくれる人がいるからです。自分のためだけだったら、どこかでチャレンジをやめてしまっていたかもしれません。
手足を3本失った直後、僕は「これから周りの人に迷惑をかけながら生きていくのか」という不安が強かったです。立ち直ってからはその反動で、親孝行するんだ、友達と遊ぶんだ、社会に出て働くんだと決意し、がむしゃらに生きてきました。
そんな僕の姿を見て「勇気が湧いた」「希望の光が見えた」と言ってくれる人がたくさんいました。直接会ってきた人、僕のSNSやYouTubeを見てくれた人。色々な嬉しい声をもらってきました。
自分が命を救ってもらった時、僕は周りの人から希望の種を植えてもらったおかげで、成長することができました。その自分が、誰かのためになることができている。そう思うと、「この命は人に希望を与えるために助けてもらったんだ」と考えるようになりました。
人生は良いことも悪いこともたくさん起きるけど、「生きてて良かった」という思いが根幹にあるから、僕は前向きでいられます。11年前、僕を救ってくれたたくさんの人たちには感謝しかありません。今度は僕が元気な姿を見せることで、色々な人に恩返しができると思っています。
(構成:J-CASTニュース編集部 青木正典)