「核共有」論にも「そう考えざるを得ない人が出てくる背景には思いを」
―― 共闘の説明が難しい状態だったのに、志位氏が高揚していたというのは意外でした。著書では「現在の共産党は、みずからが最左翼であることに満足し、あるいはそれを誇っているように見えるが、政権をめざす政党としてはどうなのだろうか」とあります。先日の出版記者会見では、今の共産党は先鋭化した市民運動と一体化して、一般の人にとっては「怖い人」と受け止められているのではないか、という趣旨の指摘もありました。つまり、ふわっとしたライトな支持層、無党派層に訴求するのが難しくなっているのではないか、という懸念です。党として、どの程度「右」に行くべき、行くことが許容されるとお考えですか。
松竹: 私のブログ「超左翼おじさんの挑戦」のサブタイトルには「保守リベラルからリアリスト左翼まで中翼(仲良く)」と書いています。「超左翼おじさん」と言っているので左翼なのですが、やっぱりどこまで対話が可能か、共感が可能か、ということで、あのように書いています。実はあの言葉は私の発言ではなく、「自衛隊を活かす会」代表の柳澤協二さん(元内閣官房副長官補)の言葉です。柳澤さんは、防衛官僚という立場から、だいぶ歩み寄ってきたという経緯があります。当初は、例えば「九条の会」で呼ばれたときは「絶対行かない」と言っていたのですが、別の名前の会から呼ばれて名刺交換したら九条の会の人だった、ということがあったりして、だんだん九条の会や革新懇(平和・民主・革新の日本をめざす全国の会)もOKになっていきました。その過程で、「左翼であっても、リアリストだったら対話して共感を広げる対象にするんだ」「保守リベラルからリアリスト左翼まで」と柳澤さんがおっしゃっていたのをパクリました(笑)。そう考えると別に最左翼でもいいのですが、それだけでは、おっしゃるような、ふわっとした人とは全然違うわけですよね。自分の立場や意見と異なったときに、すぐに「その意見は間違っている」となってしまうと...。市民運動はそれでいいのですが、政党としては、国民の多数の支持を得るという基本的なところからも、おかしくなってしまいます。国民の中には無党派層もいて、右翼もいて左翼もいて、憲法の問題では改憲派もいます。そういう立場が打ち出されたときに、その人がそのように主張する根拠があって、そこにはやはり共感できるものがないと駄目だ、というのが私の一貫した考え方です。
言い方を間違えると誤解されるかもしれませんが、核共有論だって、やはり「ウクライナ戦争があって、もう米国は自国を守るために核兵器は使ってくれない」という不安があるわけですよね。「それだったら米国に任せるのではなくて、自分たちも核兵器の使用に決定権も持たないと核兵器の信用性がなくなる」といった議論です。共産党としてそれを批判しても良いのですが、そう考えざるを得ない人が出てくる背景には思いを寄せて、「そういうところもあるよね」と、いったん共感をして、何らかの心の通い合いがあった上で次の議論に進む...といったことでなければ、政党としてはうまくいかないのではないかと思っています。