「面白いマンガが読みたい」一心で歩んだ38年 プロ作家も多数輩出「コミティア」の歴史とこれから

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コミティアのために「ぱふ編集長」を退任

――中村さん自身は、商業マンガやパロディに関心はなかったのでしょうか?

「コミティアを始めたころは、まだマンガ情報雑誌『ぱふ』の編集部員をしていました。その仕事では商業誌のマンガもめちゃくちゃ読んでいたし、パロディの感覚に近い、マンガやキャラクターで遊ぶような記事を仕事で書いたりしていました。それで満足していたので同人のほうでもやろうとは考えませんでしたね」

「ぱふ」は雑草社によるマンガ情報雑誌で、2011年8月26日に37年の歴史に幕を下ろした。マンガ家へのインタビューやマンガ批評、コラムなどを取り扱った。

――中村さんは1988年から93年まで『ぱふ』の編集長を務められ、コミティア運営のために退職したと聞きます。どういう経緯でコミティア設立に参画し、仕事を辞めたのでしょうか?

「『ぱふ』の同人紹介コーナーを担当した縁で、初代共同代表の土屋真志さんと熊田昌弘さんと知り合いました。私は雑誌『ぱふ』の編集、また一個人の興味からコミティアの設立に協力した形です。ところが初代代表が就職からの地方赴任で物理的に続けられなくなり、第3回から私が代表を引き継ぎました。
最初は『ぱふ』の仕事とイベント運営を並行して続けていたのですが、コミティアの規模も拡大し、どうにも両立が出来なくなったんです。そこで『ぱふ』の編集長を後任に譲り、コミティアを本業にすることにしました。経済的な不安がなかったわけではありませんが、ここはもう踏み切るしかありませんでした」

――中村さんは当時、コミティアの何に惹かれていたのでしょうか。

「イベントからどんどん新しい作家や作品が出てくる面白さですね。面白ければ当然そこからプロになる作家も現れたし、雑誌掲載を経ずに同人誌がそのまま商業単行本化されるケースも出てきました。
マンガ『超人ロック』の作者・聖悠紀さんらが所属していたサークル『作画グループ』代表のばばよしあきさんとお話した時に、『創作にプロもアマもない』という言葉を聞いて、まさにその通りと思いました。商業誌・同人誌という発表媒体に拠らず、作品はそのもの自体に価値があるんです。コミティアは、そのように作品がきちんと読まれ、評価される場所でありたいと思っています」

――中村さんはコミティアに出品された本をすべて読まれていますよね。

「いまは段ボール20箱分くらい見本誌が集まります。色々なジャンルがあり、全部と言うと少し大げさなのですが、マンガやイラストの本は全て読みます。でもそれが楽しみでコミティアをやっているんです」
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