発売直前の小説『中野正彦の昭和九十二年』が社内事情を理由に回収され、著者が抗議していた問題で、版元のイースト・プレスは2022年12月18日、「現場の認識の甘さと怠慢が招いた」として謝罪した。
同書をめぐっては、関係者が「ヘイト本」ではないかとSNSで指摘し、波紋を広げていた。一方、担当編集者は「差別を助長、扇動する意図はなく、あくまで反差別の立ち位置から執筆、編集しました」と反論し、著者も同様のメッセージをSNSに投稿していた。
「大手出版社が刊行を躊躇った未完の小説」
『中野正彦~』は、12月19日に発売予定(15日には書店などに搬入済)だった。「安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」との触れ込みで、書籍サイトでは「安倍晋三元首相を『お父さま』と慕う中野正彦ーー過激で偏った思想を持った革命家気取りのテロリストが、一発逆転、国家転覆を目論む」と説明していた。
メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」での連載時には、内容が物議をかもしていたといい、「大手出版社が刊行を躊躇った未完の小説が、大幅加筆のうえ完成」と宣伝している。注釈には「本書のSNSへの転載を禁じます」「実在する人物、団体、出来事とは一切関係ありません」とあり、担当編集者は12月3日に「取扱注意の小説です。何事もなく書店に並びますように」とツイートとしていた。
しかし、発売を控えた12月中旬、イースト・プレスの別の編集者が公開の場で苦言を呈す事態となった。ヘイトスピーチが配慮なく掲載されていると問題視し、担当編集者に抗議したとツイッターで明かした。投稿は広く拡散し、多くの人に知られることとなった(現在は削除)。
事態を受けてか、イースト・プレスは16日、「刊行にあたっての社内承認プロセスに不備がありました」として回収を発表した。
「回収理由は、本書がヘイト本だからでは断じてありません」
担当編集者は「回収理由は、本書がヘイト本だからでは断じてありません。また、いただいたご指摘は重く受け止めますが、抗議活動に屈したからでもありません」とツイッターで説明している。
『中野正彦~』には、差別的な思想をもつ登場人物がおり、「耐えがたいショックを受ける方もいらっしゃると考えられます」とするも、それが伝えたい内容ではなく、「現実として、そのような差別的表現が世の中に横行しており、それを野放しにしていると、本書に描かれている最悪の未来が訪れてしまうのではないか、という作品です」「著者や担当編集に、差別を助長、扇動する意図はなく、あくまで反差別の立ち位置から執筆、編集しました」と刊行の意図とともに執筆側の立場を明確にした。
著者の樋口毅宏氏も、執筆の動機は文芸評論家・吉田健一が示した「理解できない敵がいて、その敵のことをよく理解するためには、まずはその敵の気持ちになって考えてみることです」との旨の考えへの共感で、「ヘイト本」や「歴史捏造本」とは一線を画しているとツイッターで記している。
樋口氏はネット上の排外主義的な主張に危機感を覚え、「どうしたらいいのか。どうすべきか。私は作家なので、小説で世間に伝えることにしました」としている。
「刊行における責任の所在が曖昧だということが発覚しました」
イースト・プレスは18日、自社サイトで改めて書籍に言及した。永田和泉社長名義で、『中野正彦~』は「内容の表現手法の個性から、出版にあたりしっかりとした社内議論が必要であると考えます」とするも、「刊行に至るプロセスにおいて社内で確認すべき法的見解の精査や社の最終判断を得ることを行っておりませんでした。同時に刊行時においても契約書の締結が終了しておらず、刊行における責任の所在が曖昧だということが発覚しました」と回収理由を詳説した。
確認が不十分だった原因は「社内決裁に対する現場の認識の甘さと怠慢」があったとして、樋口氏に謝罪。担当編集者と上長の責任に触れ、「注意指導すると共に社内規定に則った対応」をするという。
また、「別の社員が社内で知り得た情報について、個人の考えを当該書籍刊行前に自身のTwitterに公開したことで、社内外たくさんの方々よりご心配の声をいただきました」とツイッターでのトラブルも取り上げ、「思うことがあったとはいえ、あのような一方的な言動が正しかったのか、著者や言われた側はもとよりこの件に関係のない他の社員、弊社に関わる様々な方々の業務にも影響が及ぶとの想像力がなかったのかと考えます。当該社員の行動に至った経緯を検証した上でこちらも社内規定に則った対応を行って参ります」との対処方針を示した。
一連の騒動は「ひとえに一部社員の出版社に身を置くものとしての自覚の欠如、業務に対する意識の低さ、それを是正できなかった社のガバナンスの甘さが要因」だと捉え、「社の代表として改めて今の時代の出版社の在り方、編集者としての責任の深さを強く認識させていかねばとの思いでおります」としている。