旧ソ連の大統領で、ノーベル平和賞も受賞したミハイル・ゴルバチョフ氏が2022年8月30日に亡くなった。91歳だった。
父はロシア人、母はウクライナ人、妻もウクライナ系。生まれ故郷はロシア人とウクライナ人が住む小さな農村だった。今日のロシアとウクライナのねじれた関係を体現したような人物だった。
母の手紙を口述筆記
ゴルバチョフ氏は1931年、ロシア南部の北カフカスに近いプリヴォリノエ村で生まれた。『ゴルバチョフ――その人生と時代』(ウィリアム・トーブマン著、白水社)によると、一帯はいわゆる開拓地。18世紀以降、コサックや農奴、追放された農民などが入植し、開墾した土地だ。村民はロシア人とウクライナ人が半々だった。
ゴルバチョフ氏の父方の祖先は19世紀末に、ロシア内部から移住してきた。母方はウクライナ北部チェルニゴフからやってきた。祖父母はウクライナ人。したがってその娘で、後にゴルバチョフ氏を生むマリーヤさんもウクライナ人だった。
ゴルバチョフ氏は3歳からの数年間を、ウクライナ人である母方の祖父母と集団農場で暮らした。13歳になるまで列車を見たことがなかったという。生まれ故郷は相当の田舎だったことがわかる。
ゴルバチョフ氏の母は、ロシア語の読み書きができなかった。母が独ソ戦で出征した夫に宛てて手紙を書く時は、まだ子どもだったゴルバチョフ氏が口述筆記していた。
ロシアには多数のウクライナ人
ゴルバチョフ氏は成績が優秀で、難関のモスクワ大学に進んだ。在学中に1学年後輩のライーサ・チタリェンコさんと出会い、1953年、学生結婚した。ゴルバチョフが一目ぼれした。
『ゴルバチョフ』は、若い2人には共通点が多かった、と書いている。共に貧しい階層の出身者だった。肉親が、1930年代に吹き荒れた「粛清」の被害にもあっている。そして、「ウクライナ」。ライーサさんの父も、ゴルバチョフの母もウクライナ人だった。
しかも、ライーサさんの父は、ウクライナ北部のチェルニゴフ生まれ。そこは、なんとゴルバチョフ氏の母の一族がかつて住んでいた場所だ。2人の「ルーツ」は重なっていた。
現在のウクライナでは、国民の約2割がロシア系とされている。ロシア語が話せる人は国民の半数を超えるという。
旧ソ連は多民族国家だったが、現在のロシアにも、182の民族が住む。ロシア人(民族)が全人口の77.71%を占めるが、同じ東スラブ人のウクライナ人の割合も1.35%。全体の3位となっている。ゴルバチョフ氏の家族史は、こうしたロシアとウクライナの強い結びつきが凝縮されている。
ウクライナ語の歌を口ずさむ
共同通信編集委員兼論説委員の松島芳彦さんは2022年3月24日、信濃毎日新聞への寄稿で、次のように記している。
プーチン大統領は21年7月に発表した論評で「ウクライナの完全な主権はロシアとの完全なパートナー関係があってこそ可能」と述べた。一国の主権より特定の体制の利益が優先するというのだ。ソ連時代の「制限主権論」と変わらない。時代錯誤である。
プーチン氏は同じ論評で「われわれは一つの民族」とも主張した。ゼレンスキー氏は「いや、カインとアベルのようだ」と切り返した。旧約聖書に登場する兄のカインは、弟のアベルを妬(ねた)みから殺して神にもうそをつく。今世界が目にしているのは「兄弟殺し」の惨劇である、と。
ゴルバチョフ氏は、「住民の大半がロシアへの再統合を希望した」として14年のロシアによるクリミア併合を支持した。そのことで、ウクライナからは入国禁止になった。しかし、「クーリエ」に掲載された16年のAP通信のインタビューでは、母親から教わったウクライナの歌を口ずさむ場面もあったという。
妻の親戚がウクライナに
ロシアのウクライナ侵攻について、「ゴルバチョフ財団」は2月26日、「一刻も早い戦闘行為の停止」などを求める声明を発表した。
琉球新報によると、声明は「世界には人間の命より大切なものはなく、あるはずもない。相互の尊重と、双方の利益の考慮に基づいた交渉と対話のみが、最も深刻な対立や問題を解決できる唯一の方法だ。我々は、交渉プロセスの再開に向けたあらゆる努力を支持する」として早急な平和交渉を求めた。
ゴルバチョフ氏の妻、ライーサさんの多くの親戚はまだウクライナにいるという。
タス通信によると、ゴルバチョフ氏はモスクワ市にあるノボテビチ墓地の妻のライーサさんの隣に埋葬される予定だ。
ウクライナは、ゴルバチョフ氏のペレストロイカが引き金になって独立した。だが、皮肉にもそのウクライナがロシアの侵攻を受ける中、ゴルバチョフ氏は死去した。
ゴルバチョフ氏は、東西冷戦終結への功績でノーベル平和賞は受賞したものの、自らのルーツに関わる紛争は未解決のまま残されることになった。
先のAP通信のインタビューでゴルバチョフ氏は、プーチン評を尋ねられ、こう答えている。
「最初のうち私は彼をほぼ全面的に支持していましたが、やがて批判の声をあげはじめるようになりました。いまでもその見解を変えるつもりはありません」