「神様から色のよく映る目をもらった」
「私のデザインの象徴といわれるチョウは、故郷のモンシロチョウ」としばしば語った。 標高約300メートル、中国山地の南西部にある自然豊かな人口数千人の小さな町、六日市町(現在の吉賀町)で育った。父は開業医で地元の名士。ハイカラ趣味の文化人で、ロシア人の洋服屋の仕立てた服を愛用し、娘の服は、三越や高島屋からメールオーダーで取り寄せていた。
五人きょうだいの次女。長兄が東大医学部に進んだことなどもあり、小学校4年の時に母らと東京に引っ越す。絵を描くのが好きで美術学校への進学を強く望んだが、父親に反対され、女子大に。結婚後、「きれいなものを作って子供たちに着せたいし、自分も着たい」と軽い気持ちで洋裁を習い始めた。自伝的著書『ファッション』(岩波新書)では、「いつも亭主に従っているのではなく、自主的に仕事をしたいという思いがあった」と語っており、戦後の新しい時代の女性の生き方を先取りしていた。
新宿に開いた店には、進駐軍の将校夫人らが来るようになり、洋服を日常着としている外国人と身近に接することで目と腕を鍛えた。また、映画の衣装デザインの仕事は、どんな学校に入るよりも勉強になったという。「太陽の季節」の南田洋子のワンピース、「狂った果実」の石原裕次郎のアロハシャツ、「秋日和」の岡田茉莉子のスーツ......。主役はアップが重要で、襟元や袖口の見せ方、キャラクターを強調する布地選びなどを学んだ。
ちょうど映画がモノクロからカラーに移る過渡期。のちにデザイナーとして世界の舞台に躍り出て「色で勝負」できたのは、「神様から色のよく映る目をもらったのと、カラー映画で勉強させてもらった」ことが大きいと回想している。