政府が2022年8月15日に開いた全国戦没者追悼式で尾辻秀久参院議長(81)が述べた「追悼の辞」には、遺族のひとりとしての思いが強くにじんだ。尾辻氏は父親を戦争で失い、母親も若くして亡くしている。
子どもの頃は「一度でいいから、お腹いっぱい御飯を食べてみたい」という思いで育ったという尾辻氏。「平和な時を生きた、おかげさま」で両親よりもはるかに長く生き、参院議長にも就任したことで、残りの人生を「戦争の悲しさを伝える語り部」として生きていくことを誓った。
「父より50年、母より40年長く生きております」
尾辻氏がウェブサイトに公開しているプロフィールによると、「3歳の時に、ソロモン群島沖の海戦で父を亡くす。父・秀一は、駆逐艦『夕霧』艦長(海軍少佐)。享年32歳、駆逐艦と運命を共に」。母親も、尾辻氏が20歳だったときに41歳で急死している。当時は防衛大学校の学生だったが、当時高校生だった妹を進学させるため、退学して鹿児島に戻り、家計を支えた。「追悼の辞」では「母も戦死したと思っております。戦争がなければ、早く死ぬこともありませんでした」と説明した。幼い頃の窮状について「一度でいいから、お腹いっぱい御飯を食べてみたいと思っておりました」と述べた。
それから長い時間を経て自らが議長に選出されたことに触れ、
「平和な時を生きた、おかげさまであります。父より50年、母より40年長く生きております。残された命は、戦争の悲しさを伝える語り部として生きてまいります」
と語った。
尾辻氏は、他党の現職国会議員の死去にともなう追悼演説を3回も行ったことでも知られる。とりわけ有名なのが、08年1月23日に民主党の山本孝史参院議員に対して行った演説だ。山本氏は「我が自由民主党にとって最も手ごわい政策論争の相手」で、がん対策基本法や自殺対策基本法の成立に尽力。尾辻氏は声を詰まらせながら「あなたは参議院の誇りであります。社会保障の良心でした」と功績をたたえた。
「私たちにできることは、散っていかれた方々のことを忘れないこと」
参院副議長を務めていた11年11月25日には、急逝した、民主党出身の西岡武夫議長に対する追悼演説も行っている。その中で、次のように戦争体験にも触れている。
「少年時代にふるさと長崎市に原子爆弾が投下される瞬間を目撃しておられます。御尊父が長崎と広島の両地で被爆されました。愛する郷土長崎の惨状は、先生にどれほどの衝撃を与えたことでしょう。平和を希求する政治家、西岡武夫の原点であります」
尾辻氏は議長として初めて臨んだ今回の「追悼の辞」で、戦争による犠牲について
「この平和が、取り返しの付かないほど、大きな犠牲の上に築かれていることを忘れてはなりません。私たちにできることは、散っていかれた方々のことを忘れないことであります」
と述べた。
尾辻氏は12年から15年にかけて日本遺族会の会長を務めた。さらに、超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会長も務めてきたが、22年8月3日の議長就任会見で、「けじめをつけておきたい」として、辞任する意向を明らかにしている。
尾辻氏の「追悼の辞」は次のとおり。
尾辻秀久参院議長「追悼の辞」全文
本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式が執り行われるにあたり、参議院議長として、謹んで、哀悼の誠を捧げます。 父は、32歳で戦死をいたしました。母は、残された私と妹を、女手ひとつで、必死に育ててくれましたが、41歳で力尽きてしまいました。母も戦死したと思っております。戦争がなければ、早く死ぬこともありませんでした。 子どもの頃は、一度でいいから、お腹いっぱい御飯を食べてみたいと思っておりました。そんな私を、先日、参議院の議長にしていただきました。 平和な時を生きた、おかげさまであります。父より50年、母より40年長く生きております。残された命は、戦争の悲しさを伝える語り部として生きてまいります。 この平和が、取り返しの付かないほど、大きな犠牲の上に築かれていることを忘れてはなりません。私たちにできることは、散っていかれた方々のことを忘れないことであります。 平和を守るために、力の限りを尽くします。戦没者の御霊に、そのことをお誓い申し上げまして、追悼の言葉といたします。 令和4年8月15日 参議院議長 尾辻秀久
(J-CASTニュース編集部 工藤博司)