アイドルフェス「ギュウ農フェス」のプロデューサーの田中友二さんが2022年5月19日、心筋梗塞のため急逝した。47歳だった。田中さんは「ツマさん」の名前でアイドルファンにも親しまれ、ライブアイドル界の名物ファンでもあった。長く親交があった「ギュウ農フェス」主宰のギュウゾウさんに田中さんのエピソードを聞いた。
新宿歌舞伎町でアイドルファンが追悼
5月22日にツマさんこと田中さんの訃報が公表されると、SNSには田中さん(以下、ツマさん)を惜しむアイドルファンや関係者の声が相次いだ。ツマさんのツイッターアカウント名「Tumapai」にちなんで「Tumapaiforever」のハッシュタグで投稿が共有され、23日夜には新宿歌舞伎町のライブハウス・新宿BLAZE前にアイドルファンが集まって別れを惜しんだほど。様々なグループのファン、さらにはメンバーからもその名を知られたツマさんとはどんな人物だったのか。
ツマさんがプロデューサーとして携わっていた「ギュウ農フェス」主宰のギュウゾウさんは、ツマさんと約10年来の付き合いになる。そもそもパフォーマー集団「電撃ネットワーク」の一員でもあったギュウゾウさんを本格的にアイドルカルチャーに引き込んだのがツマさんだったという。
「2010年から2014年までのBiS第1期、トップオタ(TO、群を抜いて活動的・熱狂的なファン)としてどんなイベントの現場でも出会う存在だったのがツマさんでした。彼と知り合ったのは2011年でもう11年前ですが、本当にBiSのあらゆる現場に顔を出していた『ほぼ全通』の人で、BiSのファンはもちろんプロデューサーの渡辺淳之介さんにも認知されていました。他にも大ブレイクする前のPerfumeやNegicco、でんぱ組.incなどにも着目していたりで、インディーズアイドル界のオタク第一人者のような人です。僕もBiSファンでしたが、とにかく変人なんだけど突拍子もないアイデアを思いつく人でした」
BiSの研究員(ファンの通称)の集まりで、ツマさんが珍しく参戦していなかったライブの話になった時、ツマさんは「そんなイベントは認めない!」と反発したこともあったという。ライブへのこだわりは相当強かったようだ。BiSに限らず、数多のアイドルグループのライブに出没し、人間関係を構築していった。アイドルファン同士として親交があった作家のジェーン・スーさんも訃報の後に「すごく厄介ないい人」とツイートしている。
「沖縄の闘牛場でフェスをやろう!」と言い出す
BiSの「TO」として名をはせたツマさんだったが、BiSは2014年に第1期が解散。翌年、ギュウゾウさんが経営する栃木県小山市の「ギュウゾウ農場」の名前を冠して栃木県のアピールを兼ねた「ギュウ農フェス」がスタートする。ギュウゾウさんからツマさんを誘ったが、なかなか首を縦に振ってくれなかった。
「僕がやっていた農場イベントを発展させて、集客のためにもアイドルを呼んでみようとツマさんを誘いましたが、最初はへそを曲げてなかなか了承してくれませんでした。三顧の礼のように何度も礼を尽くしてプロデューサーとしてかかわってもらえました」
ギュウゾウさんとツマさんにはフェスの開催に独特のこだわりがあった。
「当時は可愛さを前面に出した正統派のグループがメジャーアイドルとしてブレイクしていく時代で。でも僕たちはBiSが好きだったこともあって荒々しい、ロックなアイドルもステージに呼んで音楽を楽しみたいと考えていました。
また一部のアイドルイベントにはファンの課金を煽るような面もありまして...それよりも、小さなイベントでも継続してやっていくことを重視して始まったのがギュウ農フェスです。ツマさんはお金儲けよりも演者が喜ぶイベントにしたいという考えで一貫していました。アイドルや音楽の文化を汚すことはしたくない、と彼は考えていて、お金には執着しないけど文化に対しては潔癖症なほど純粋だったと思います」
ギュウ農フェスは都内各地を中心に数カ月間隔のハイペースで開催。ツマさんが企画を担い数多のインディーズやローカルのアイドルが出演してきたギュウ農フェスだが、ツマさんの突飛さはビジネスの場でも変わらなかった。
「誰も知らないようなアーティストをメインステージに出演させる!みたいなアイデアを平気で思いつく人なんですよ。気分屋で予算繰りも下手。怒られても笑っていたり、プライベートでもファン仲間にさんざん迷惑をかけて文句も言われていた人でしたが、なぜか一目置いてしまうんですね」
先日も沖縄でギュウ農フェスを開催する企画が俎上に上がった時、「闘牛場でフェスをやろう!」とツマさんが思いついたという。「ギュウ農フェスが作った映画『IDOL NEVER DiES』の公開も5月6日に始まったばかりで、まだまだこれからも色々な動きを考えていたのですが...」(ギュウゾウさん)と、アイデアは尽きない中での突然の訃報だった。
最後まで本業不明「この人何やってるんだろう?」
ツマさんはギュウゾウさんのエフエム栃木のレギュラー番組「ギュウゾウとPinokkoの雷ヘッドライナー」の放送作家でもあったが、本業は何なのか、どうやって生計を立てているのかはアイドルファンの間でも最後まで謎のままだった。
「毎日のようにあらゆる現場に顔を出していた人で、『この人なにやってるんだろう?どうやって生活してるんだろう?』と不思議がられていたと思います。だから彼の職業についてはいろんな真偽不明の噂もありましたが、最後まで分からずじまいで。
エキセントリックな人で腹が立つこともありましたけど、ライブアイドル界の歴史に残るオタクでした。訃報が公になってから、彼のために献杯しようと新宿BLAZE前でのべ100人以上のオタクが集まってくれて。今でもまだ受け止めきれていないところはあります」
取材中にもツマさんを思い出して涙ぐんでしまったというギュウゾウさん。栃木で大きなアイドルフェスを開催したいというギュウゾウさんの目標が実現する前にツマさんはこの世を去ってしまったが、「ギュウ農フェスでのアイデアを聞いていても、広い目でアイドル文化を見ていた人だったのかなと。フェスに映画と動いているプロジェクトは続けますし、ツマさん流のこだわりは忘れないでいたいです」と、故人の遺志を忘れず前を向いている。
(J-CASTニュース編集部 大宮高史)